すべてに仏性が宿っているのなら
ではなぜ人は修行するのか?

この問いから禅は始まった

仏性は達成すべきなにか?ではなく本性だということを
OSHOはよく
「海の中で暮らす魚は海について知り得ない」という喩えを使って説明した

本性であるが故に、そこに分離がなく
そして分離がないものは知覚しがたいというわけだ
それはまるで自分の額に置き忘れた眼鏡を探す様なモノだ

人は忘れ去ってしまったモノを「失った」と思い
そして必死に探そうとする、ところが探せば探す程・・・
必死に探す程、それは見つからない・・・

なぜ人は修行するのか?
なぜ「悟り」を「求める」のか?

改めてその「求める動機」を考えて見るならば
それは、「今の、この自分ではダメだ」と思っているからだ

では〝どの〟 自分ならイイのか?  〝どうなったら〟 イイのか?

実はその答えを、求める当の本人も知らない・・・、解らない・・・


闇雲に探しているわけだ

「忘れた」のだから、単に「思い出せば」いいはずだ・・・
ところが「思い出そうとする」だけで、額から脂汗が流れる・・・

「思い出そうとする」だけでそれは〝努力〟〝工夫〟であり
つまり
「思い出そうとする」ことには、もはや何かの〝動機〟が存在している

つまり「忘れている」ことが、もうオーケーじゃない、
         ・・・惨めで、不完全だ、っという訳だからだ
  だから
「額から脂汗を流して」「思い出そうとする」わけだ

そして期待する・・・、
いつか記憶を取り戻した「別の、生まれ変わった未来の自分」は
きっと素晴らしいに違いない、覚醒に目を輝かせているに違いない!
世界が新鮮に!、ファンタスティックに!輝いて見えるに違いない!

・・・そんな憶測、そんな期待、そんな希望が、ある

ところが、「忘れる」「思い出す」と言うこと自体がプロセスだ
そこには「はじまり」と「終わり」がある

「悟りに近づこうとする努力」
・・・その始まりがすでにワナなのだ
だから「自分は悟りに近づいている」というのもまたトリップだ

私たちは皆「思い出す」「思い出そうとする」という
プロセス(探求の旅)に取り憑かれた、憐れな瓶の中のガチョウだ

わたしたちは、また忘れるだろう、何度でも、何度でも・・・
ところが「忘れている」状態が、同時に「思い出している」状態でもあるのだ

忘れて、そして、思い出す
でも、その「そして」が余計なのかも知れない