以前のブログ(抹消済み)で、「無条件の愛」という言葉の危険を指摘させてもらった。


そもそも、「愛」とはなんぞや?

・・・こういった抽象度の高い言葉の定義は当然、千差万別、十人十色だ。

  以前若い女性と話していて、
   「愛って、優しさのことでしょう?」と言われ、
    アゴがはずれそうになった経験がある。


  たぶん、いま同じ問いを発するならば、
   「え? 愛って当然経済力だよね?」とか言われ、
    今度こそアゴが地面に落っこちるかも知れないから
    イマドキの女性にはそんな質問は訊かない様に留意している。


そもそも、「愛」という現象の言語化自体に暴力的な要素がある。

言語化とはロジック化なので、「愛というロジックを越えた現象」を
言語化しようと試みている時点で、ヤバイのである。

そこへ持ってきて「無条件の愛」というと、もっとヤバイ



  もちろん、
  わたしなりにこの言葉の美しさは理解しているつもりだ。

そもそも、「条件付け」こそが「愛」の正反対であり
「~~したら、あなたを愛しましょう」
「あなたがXXであれば、私はあなたを愛する」
などというのは言葉の遊びも甚だしい。

“受験戦争”という言葉が聞かれる様になった頃からの
教育ママゴンの「あなたの為を思って・・・・」というフレーズは、
斉藤一人の「地上が天国になる話」によって
その正体が、「愛」ではなく、むしろその対極の
「劣等感」「強迫観念」「世界への不信感、不安感、危機感、・・・」
であることが暴かれた。

  ※ たぶん、ママゴン自身がペットへの「餌付け」や「調教」と
     我が子への「躾(しつけ)」とを混同しているのだろう。


しかし、これ程までに明快に解明されたことであるのにもかかわらず
残念ながら、この地上には、いまだ劣等感や強迫観念が
満ちあふれている。

   原罪思想、罪悪感流布の....
    進撃のキリスト(人類奴隷化)、恐るべし!!
     【動画資料】zeitgeist 時代の精神

   さらにその劣化コピーの
  キムチ・キリスト壺売り教、キムチ折伏ナンミョー学会、たまんねっす!!
    “ ニ ダ ヤ ”が解るとユダヤが見えてくる
     

さて、これ程までにあらゆるカルマの吹きだまり状態の現地球において
「無条件の愛」とか、(愛に餓えた)ネラーの目に留まろうものなら、さあ大変で、

即座に、

   「無条件の愛、かよ!?  そっか!だったら全財産くれや!!」

   「ついでに、俺の奴隷になれや!」

                    とか、  彼ら、マジで言い出しそうだ。


「無条件の愛」  っと言う言葉自体が、即、
「有条件の愛」  っという概念を生む。

  「優しくしてくれるのが愛」
  「甘えさせてくれるのが愛」
  「構ってくれるのが愛」
  「囲ってもらってこそ愛人」
  「愛しているなら、カネをくれ!養ってよ!」 っと、
               本気で言い出す人間を輩出させる。

そういう人は厳しい愛のカタチを学べる
「女王の教室」でシゴかれた方が良かろう



本来、愛とは「無底(底なし)を根底としたエネルギー現象」だ。

だから、無条件の愛とは底抜けの愛のことでもある。

いや、そもそも「愛」に
「無条件の~」  やら
「有条件の~」  やら、があるのではなく
愛という現象自体が、「無条件さ」であり「無分別さ」であり
              「底抜け」の美しい狂気である。

和尚ネオタロット:22.Innocence
   イノセンス(無垢)
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)



和尚ネオタロット:49.Love    愛 
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)




OSHOが「愛」という漢字の構成を生前ご存知だったかは知らないが
(たぶん知っていたと思うが)

「愛」とは「受容性の中心にある(真=ま)ごころ」と書く。

「(イヤイヤ、しかたなしではなく)本音の真心からの全ての受容性」

                ・・・・それが、漢字の「愛」の構成である。

だから、受容性の素晴らしさを強調して止まなかったOSHOの講話は、
〝愛〟という文字の構成の真意を見事に再現していたとおもう。

しかし、このデリケートなナザレのイエスの「神の御心」の世界を、
     デリケートであるが故に、いともた容易く悪用して成立
     した(パリサイ人プロデュースの)キリスト教とは、
まさに「ダース・ヴェーダ」・・・・

(「神の愛」「自己犠牲」という
 美名の許での)

   ・・・・〝殺戮の教典〟だ。   





「無条件の愛」という言葉の流布とは、かように誤解を招く
おかしなホームラン王!、恐るべき危険性を孕んでいる。
キリスト教徒に「無条件の愛」だなんて言おうものなら、
即座に
 (西欧社会で二千年間愛好されている人間干物グロ・フィギュア)
  十字架を取り出して、目をしばたたかせて言い出す。

「そうですね!わたしたちは主、イエス様の磔の姿に
 無条件の愛、無限の愛をいつも感じるのです」 ...って

  
  キメえんだよ!!羊の皮をかむった
  偽善の教典主義者どもはよぉ!!


  立川の聖☆おにいさん(ジョニデ似のロンゲの方)には
  この問題を、いま、どう感じているのか?是非突っ込んでみたいところだ。



そもそもこのトマスのエピソードは、イエスの復活劇が
邪悪なウソであることの大切な証拠である

キリスト教では「私は命である、私は復活である」と
渋谷駅前のマイクロフォンで喧伝しているが・・・・

それは、この「トマスが聖痕に指を入れてみた」という
エピソードが重要な“証言”となっている

確かに生命の偉大な働きのひとつは
「ホメオスタシス(恒常性)」にある

もし、トマスが出会ったというイエスが、死体(ゾンビ)で
あったなら傷口は開いたままなので指を入れることが出来る

しかし、もしトマスが出会ったのが、正真正銘の生きた
“ナザレのイエス”(生体)なのならば、肉体は修復しようと
大急ぎで傷口を塞ぐ為に指を入れるなど不可能だからだ。

つまりこれは、<復活劇を仕組んだ者達>がでっち上げた
奇跡の証言なのだ。

十字架で果てた弟のイエスとそっくりの場所に切り傷を付けた
一卵性双生児の兄イエスが、復活の証言に必要な最低限の
人達と会ってまわり、正体がばれる前にさっさとどこかに消えて
I'll be back 私は再臨する」と言い残したのだろう。

                (死の教典)キリスト教、一丁上がりぃぃ!


弟イエスは本当に素晴らしい人物だったのだろう

だから、彼の言葉に感銘を受けた人達も多かっただろうし
復活と再臨を望む“願望”も強かったに違いない。

そして、その当時ローマ帝国の圧制下で、救済を切望していた
ユダヤの民、その他の民族が多かったことを考えれば、救世主を
切望する人々の期待感が如何にムンムンしていたか?

そんなところに、この “奇跡の復活” を目にしたら、どうなったか?
察するにあまりある

「水の上を歩いた」 「どらえもんの様にパンを出しまくった」

あとはもう etc...etc...etc...  もともとプロデュースされたことなのだ

脚本家達があらかじめ用意したデマゴーグ達やら、弟イエスの
本当のファンの人達やらが入り乱れて、..迷える子羊たちが
唾を飛ばし、興奮して語り合った奇跡のエピソードのオンパレードである。

西欧社会が潜在的に抱えている劣等感、罪悪感は察するに
あまりある

キリスト教と言えば、すっかり“白人文明の根幹宗教”なのだが
彼らにとって最大のタブーは、当時のユダヤの民はスファラディー、
つまり浅黒い肌のセム系の人々であり、彼を磔にしたローマ帝国こそが
白人であることはガチだということだ!

   「自分たちで磔にした人物を神の子として信仰している」

これほどの自虐的な世界があるだろうか?

だから、イエスの脇腹を刺したロンギヌスが、その返り血を浴びて
目を癒されるというエピソードが、どれ程白人にとってすがりつきたい様な 
“寓話(ファンタジー)” なのかは、白人達の心境を想像するにあまりある。

キリスト教というのは、二千年間の罪悪感による集団ヒステリー(狂気)である

 では、この兄イエスと共に、この人類愚民化、奴隷化ヒステリー教を
 プロデュースした <悪の天才達> は誰か?

 彼らは、二千年も前に人間の心の弱さ、洗脳の心理学を熟知している

  となると、素朴な人間ばかりだった当時に、そんな連中は多くはない

  つまり、かれらは決して疑われないところに我が身を置いて
  この遠大な人類の奴隷化の脚本を演出した・・・・

  かれらは当時も今も「敵の中に身を隠す」ウィルスの様な連中だ

    つまり、映画「インサイド・マン」=偽善の律法学者達だ

    かれらこそ、「自由・平等・博愛」の演出者

    かれらこそ、「スピリチュアル、ニューエイジ、エコロジー」の


               そして 「無条件の愛」 の宣伝マン達だ



  「バシャやんはこの事(「無条件の愛」のバーゲンセール)に
   責任持てるの?」っとわたしは以前ブログで追求したら、・・・

  「チャネリングの言語化は伝達ミスも多くて...」とか、バシャールには珍しく
  釈明的な記事がPLANET NEBULAに翌日速攻でアップされてワラタ


で、今回のお題は「引き寄せの法則」なのだが、
これは、いわゆるスピ(スピリチュアル)系と、脂ぎった成功法則系との
双方にまたがって、絶賛浸透中である。

しかし、(気がついている人も多いと思うけど)

“引き寄せる”動機が、エゴからなのか?愛からなのか?というところに
違いがないのか? という視点から、まず指摘させてもらいたい。

そもそも、なぜ?「何かを引き寄せたい、のか?」と問うならば、
そこに欲(望)があるからだ。

成功法則の伝道師達はそこで、その問題を問われる前に

「お金を受け取る(お金儲けを目指す)事への
 躊躇(ためら)い -罪悪感- を振り払いましょうね!!」っとくる。

まあ、確かに間違ったことは言ってない。

現代は貨幣経済にドップリの世界なのだし、それは最低限の生活でさえ
必要不可欠なのだから、「貧しき者は幸いです」みたいな

 貧乏礼賛教、
  自己否定教、
   罪悪感注入の悪魔教のタワゴトを払拭することは良いと思う。

しかし、

   「人々の必要を満たすのには充分だが、
       欲望を満たすのには地球は耐えられない」

         っというガンジーの言葉は真理であると思う。

つまり、そこのところの“境界線”が明確でないままの「引き寄せの法則」
というのはたんなる欲望の際限なき刺激でしかありえず、それが今の




  「今年FXでAさんは43億円を稼ぎました」     
  「ねえ?そうでしょ?Aさん」
  「ハイ」

  「さあ!、あなたもこころ(無限の欲望)を
   解放するのです・・・」


    といった成功法則 アドバルーン商法の氾濫へと繋がっている。

「金融ビッグバン、ユダヤの巨大カジノに日本人はカモられる!?」
1/4       2/4        3/4       4/4
   

動画:上杉鷹山:200年前の行政改革
動画:上杉鷹山:200年前の行政改革

    アメリカン・ニューエイジ・ムーブメント、
            ニューソート(成功哲学)とは
             “彼ら”が仕掛けたものだから・・・・

一般的に「引き寄せの法則」と呼ばれている“何か”とは、
実際的には「欲望のたぐり寄せの法則」と呼ぶべきだ。

最近は「セレンディピティー(意外な連鎖成果)」という言葉が
流行りだしている。 わたしはこちらの方ならばまだ、従来の脂ぎった
「願望実現させるぞ!エイエイオー」法則よりは、ずっと好意を
感じられる。

そもそも一体何をたぐり寄せたいのか?

人々に、好みの異性を尋ねると「優しい人がいい」と解答する人は多い。
で、そんな人に限って実際はDVだの浮気だの離婚だのとなる。

    「理想と思える人」と出会えたから
     結婚という一大事を決心したのではないか?

※ ぶっちゃけ、ここだけの話・・・・  “異様なまでの”優しさって、単なる無責任(放任)に過ぎない事が多い。

教育ママゴンの“調教”がトラウマになった、その裏返し、反動としての
 -やさしさ(甘さ、放任主義)- に、気をつけるべきである・・・ 

 特に、誰かに優しさを求め、探している人は
そういう人と出会いやすい・・・引っかかりやすい。
まさしく「引き寄せてしまう」のだ。

・・・そういう「甘えん坊」に対して、本当に愛のある人なら、
むしろ冷たく、厳しく接したりするものだ。

それゆえに、「恋愛」と一括りに言うが、「恋」と「愛」はまるで別物だ。

急流の様に惹かれ合う“恋”の関係とは・・・・
「人と人(男と女)」との出会い、引き合い、恋とは、往々にして
(腐れ)縁、カルマ的だ。

その“カルマ”とは、
『前世でふたりはどうのこうの』と言う因縁の意味だけに限定されず、
トラウマや、その他思い込み、頑迷さ、経験不足、気付きの不足、
理解不足が関与しているという意味である。

“愛”というのは、
執着なき、山の清流の様
だ。
涼しく爽やかに吹き抜ける一陣の風の様だ。

それは瞬間的なすれ違いざまの出会いに見えても、
いつまでも忘れがたい永遠の輝きを記憶に留める。

しかし、こんな“恋”と“愛”との分類も、最終的には“愛”に統合される。

なぜなら、
すべての出会いが学びであり
すべての出会いが癒やしであり
全ての出会いは結局のところ、祝福だからなのだ。

5/5 [邦画] -東北の風景、そしてスーちゃん-
エンディング
 

実際は、エゴの思い描く理想のイメージをたぐり寄せたとしても、
それは往々にして「計算違い」の結果を生むことは、わたしたちは
イヤというほど実例を目撃してきて(体験してきて)はいないだろうか?

      自分自身こそが「限界の根底」なのだ


もし、「愛」というのが、OSHOの言うとおり、その文字の構成通り
その本質が「受容性」にあるのなら、「なにかをして上げること」
「何かをたぐり寄せること」自体が「愛」なのではない。

   「受け入れる」とは、では何を?

   それは「あるがまま」をだ

       ...「わたし」や「あなた」、そして世界の・・・

「でも、自分自身こそが限界の根底といったジャマイカ?」

そう、  何かを渇望し、 いまここの、あるがままの「わたし」を
受け入れられない自分こそが、限界の根源なのだ。
自分自身こそが呪縛なのだ。


  「引き寄せる(たぐり寄せる)べきものなど、何もない」

という洞察に達することが、「すべてと共にある」ことなのだ。

「すでにそうであるもの」を発見したときに、すでに全てを引き寄せている。

「すでにそうである」ならば、そこに時間(いつ?)、空間(どこ?)は関与しない。
誰が?という行為者も、何を?という対象も、なぜ?という動機も....

  いま、 ここで   Now and Here  .......

  引き寄せなければいけないものがあるとしたなら、
  それは、あなたが永遠に不幸であり続けるであろう事の証明に他ならない。

   なぜなら、それはあなたが「いま、ここで」人生の終わりを宣言されても
   受け入れ難いことを意味するからだ。

    だから、その“とりっぱぐれたもの”を取りに、
    必ず帰ってこなければいけないだろう、  ・・・「いまここ」に


ナポレオン・ヒルは、「願望は実現する」と言った。

ああ、確かにその通り!

マインドは物質的な、物理的なエネルギーで、別にオカルトでも神秘でもない
それゆえスピリチュアリズムとも無関係だ。

クレジット・カードで実現させるか? 念力で実現させるか?
・・・実は大した違いはない。

ユリゲラーのスプーン曲げが、念力であろうがなかろうが、
単にそれが目に見えない力学かどうかの問題に過ぎず、
「内面の(因果を越えた)真実」とは、全く無関係だ。

ラジオ電波が見えないからと言って、それをオカルト現象だと
誰も思わないのと一緒だ。

単に現在の科学では測定、観測不能な
脳が発する未知のエネルギーなのか?
それとも何かのトリックなのか?
いずれにせよなにがしかの因果関係なのだろう。

マインドのパワーが、
何か外面世界の制御を実現させても、
何かをたぐり寄せるのに成功しても、
それは内面の静寂、豊穣、至福とは何の関連もない。

むしろそれらがエゴの成果であり、好ましからざる反作用に
自分自身が驚かされ、苦しめられる可能性の方が重大だ。

クレジットカードだって、一見お金を支払っている様には見えないが
ちゃんと請求されている。

では、マインドのパワーで引き寄せたのなら、何の請求(反作用)も
無いのかって?  ・・・いやいや、そんなことはない(笑)

オリジナル・テレビドラマ(OST)スタートレックの初期のエピソードでも
「光る目玉」「セイサスから来た少年」など、未熟で自制心のない子供が、
それにそぐわない強力なマインド実現能力をもってエンタープライズを
混乱に貶めるエピソードがある

和尚ネオタロット:43.マインド 
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)



念力(サイコキネシス)で、コップを動かすよりも、手でコップを持って
さっさと水を飲めばいいのだ。その方が効率的だ。

空中浮遊で毎日出勤出来るわけでも、海外旅行に行けるわけでもないなら
電車なり、飛行機なりを使えばいい

 

人の生活には、水も必要だし、お金も必要だ。
そして、その必要を見たそうとする分には、
決して、わたしたちが思い込んでいるほどの苦労、努力は、
実は必要ない。

“欲”(必要性)というものは、わたしたちが思い込んでいるほどには
大した問題もなく解決可能なものなのだ。

“欲”と“無欲”とは矛盾しない

自然で必要な欲求のためだけに起こされた行動は
最大限に燃費がよいのだ  ・・・それを“無欲”とも呼ぶ。

しかし、わたしたちは往々にして“望”(未来)に囚われてしまい、
過去の記憶に縛られてしまっているが故に、単純な欲=必要性さえ
充足に困難をきたすようになり(老病)
欲+望=欲望によって破滅(死)に突進してしまう

「欲望が憧れる奇跡」とは全く別種類の「奇跡=グレイテストミラクル」がある

それが、「すでにいまここにあるもの」への感謝だ。

今、この瞬間とは、全宇宙、全時空、永遠と繋がっている。

どっちを向いても、どこまで行っても、     行った先の「そこ」とは、
「ここ」と切れ目無く一体の空間であり、  あいもかわらず「ここ」なのだ。

   そして「その時」、   経験出来ることはやっぱり「いま」の連続なのだ。


どれほどジタバタしても、わたしたちは「いまここ」から一歩たりとも
踏み出したことはない。

   ...だから「引き寄せるべきもの、こと、状況」など...  ない


                そしてそこで起こる「最大の奇跡」とは、
                  超伝導(スーパーコンダクト)である

   つまりは

 「偽らざる自分という
       無=0(アイン) の源泉に消滅する」
                                      ことであり、

 「自分の運命を瞬間瞬間デザインしているもうひとりの自分、貴方=アナッタ
       無限の宇宙=00(アイン・ソフ)を信頼する」

                                      ことであり、

 「いまここから、一秒も、1mmも踏み出した
    ・・・ことなど無く、その必要もなく、それがすべてであり、
      この時空間の一点にすべての可能性と繋がっていると言うこと
        無限の光=000(アイン・ソフ・アウル)を受け入れる」
   
                                      ことである。

この印が、「シンクロニスティー(全宇宙との共鳴現象)」であり
     その現象が引き起こす素敵なハプニング
       (運命からのジョーク・メッセージ)の連鎖を
                  セレンディピティー(思わぬ僥倖)と呼ぶ。

  ブルートゥースを正常にベアリングしたいのならば、
  一気に欲張って幾つもベアリングしようとしたりせず、
  干渉しそうな電波が無い様な環境でするといい

  静かにあらゆるノイズも干渉もなくベアリング機器を検索している
    「完全なる待ち受け」状態が、
        「無条件の愛」「無念無想」をよく比喩していると思う。


   本田健氏が「ユダヤ大富豪の教え」で、冒頭から喰らったカウンターが
   「富豪になりたいのなら、お金の事など忘れなさい」であったが
   この一見、禅の公案の様な命題は、上記の様な法則
   「瞬間瞬間に専念しなさい」に則っている。

dai

だからわたしも、警告したい

 「引き寄せの法則」なんぞ、忘れなさい!
  なぜなら、エゴによる「たぐり寄せの法則」と
      時空を越えた「シンクロニスティー」との
       味噌(ミソ)糞(クソ)のチャンポンを、世間では
          「引き寄せの法則」と一緒くたに呼称しているからだ!!

    混ぜるな危険!!  ・・・・なのである

でないと、
「引きつけ(痙攣)の拘束」に、見舞われますよ! ってね