人の痛みが分かってあげられる・・・
っというのは尊いことなのかも知れない

他者の痛みを察してあげて、その人のために泣く、
それは慈悲深いことなのかも知れない

誰かが自分のために泣いてくれる
自分も叉、誰かのために涙を流す

  ・・・その時、私たちは皆、ひとりじゃない

でも、自分が誰かを「理解してあげられた」っと確信するのは
その独善性を考えれば、恐ろしいことかも知れない

痛みであれ、人生の悲しみであれ、悦びであれ・・・
他者に対する絶対的な理解や共感を宣言することは
その他者に対する絶対的な支配を可能にすることだ

一時的であれ完全な理解とは把握であり掌握だ、
それは素晴らしい慈悲の特質に見えて
実際には独善であり、圧倒的な影響力を暗示する

そんな人は安易に
「絶対的な善」や「完全な愛」というアイディアを持ち出すだろう

それは「言ったモン勝ち」であって
「絶対善~完全なる愛」という言葉に
   平然と逆らえる人は多くはないだろう
   それは現代の「錦の御旗」だといえる

「絶対的な善」とは即ち「絶対的な悪」という発想を産み出す
そして「絶対的な裁き」を可能にする

そんな「絶対的な裁き」の法廷に逆らうもの、抗弁する者はいない
なぜならそれこそが〝絶対性〟という言葉の定義そのものだからだ

「誰も逆らう者はいない」っということ・・・sれが絶対性だ

 ・・・話はそこまで行くだろう

    「私はあなたを知っている」

    その思い込みとは、絶対性の許での絶対的な他者の支配だ

だからたとえ、
「私にはあなたの痛み、悲しみが分かってあげたい」・・・っと思っていも
        わたしはあなたに決して言ってあげることは出来ないのだ

「うん、わかるよ」っと