それは
〝相対的自由〟と〝絶対的自由〟だ

〝選択する自由〟と〝無選択な自由〟
〝知る事で得られる自由〟と〝知らないことの自由〟
     っと、言う風にも言い換えられるだろう

「他人に騙されない、損をしない、効率が良く合理的な」
       選択が出来る人は〝賢い人〟だと言える

一方
「目の前にした運命が与えたものは
 何であれ感謝をもって
 嬉々として拝領する・・・」
   無選択、無分別な自由に生きる人もいる
    そんな人は〝狂人〟にしか見えないだろう

しかし、
私たちの人生には、
この正反対のどちらの自由も必要だ

トーシンさん流にいえば「どちらが先手か?」ということかもしれない
つまりそれは「人事を尽くして天命を知る」ということだ

食べ物だろうが毒だろうが何でも無分別に食べていたら、
そりゃあそんな人はすぐに死ぬ ・・・それは愚かな生き方だ

しかし、
人生は、そのスタートライン(出生)から〝終わり〟が・・・
つまり「死」という絶対的な運命付けがなされている

マトリックス「始まりが在るものには終わりがある」

私たちは「賢い選択」「正しい選択」をし続けることによって
この絶対的な運命を回避しているが、そこにはおのずと限界がある

私たちは日々・・・
健康に気遣い、不老長寿を求めるが
手塚治虫の「火の鳥」でも見られる様に
その「賢者への道」の背後には常に愚かな悲喜劇が繰り返される

その賢さの追求は私たちに無意識レベルでの強い緊張の原因となっている
「賢い選択、正しい選択を常にしよう」
「愚かな選択、損な選択は極力回避したい」

・・・それは知らない間に私たちに
   「生き(延び)る為の身構え」という
     無意識の緊張、硬直性を強いる

そこには人事を尽くした「賢い選択の自由」はあるだろうが
その緊張感そのものは、本質的には「不自由」なのだ

モーフィアスとアンダーソン

リラックスの中にしか、自由の本質は存在しない
無選択、無分別・・・、
「どちらでもいい」という「聖なる狂気」の中にしか
本質的な自由は無い

本質的な自由、絶対的な自由とは
「不老長寿の探求」ではなく
「不老不死であることの自覚」のことだ
そこには「選択」も「探求の努力」も「善と悪との闘い」もない



J.Krishnamultiがいう
「(知る事ではなく) 知らないことが自由」というのは
そういう意味ではないだろうか?

それが「いまここにあるものがすべて天命だ」という達観なのだと思う
そこでは生と死さえも分別しない視座なのだと思う