※ 前記事の補足的な内容だけれど・・・

 「神は微細に宿る」という言葉がある
  通常は非常に細部まで行き届いた職人芸などの
  「神業」をたたえた言葉なのだが
   前記事を書き終えて別の意味が浮かんだので
    ここに書き留めておきたい

人は何かと「法則」にしたがる・・・・
過去の経験率を集めて未来を推測したいという
    飽くなき野心が人間に常にあるからだ

ひとたび「法則」を唱えはじめたら
それを出版したり、講演したり・・・
結局そんな法則の読者や、講演、セミナーの聴講者の誰よりも
出版した人、講演したセンセイ本人が一番その「法則」で
大儲けしたりするわけだ・・・・

しかし999回ニワトリにエサをあげた人間が
1000回目もエサを与えに来てくれるとは限らない

まさしく千回目に、人間はまるまると太ったニワトリを
絞めに来たのかも知れない・・・

だからOSHOは
「確率論など当てにするな!」
「過去のデーターの蓄積など何の保証もしてくれないぞ!」
「いつも醒めていなさい!、油断するな!」と警鐘を鳴らし続けた

法則を唱える研究者は999回の〝実績〟を指さす
99.9%の成功率、命中率、実験の再現性を言う

しかし千回目は全く別かもしれない
わたしたちが絞め殺されるニワトリである時、
わたしたちは「まさか!」と薄れゆく意識で思うかも知れない
しかし「絞め殺す側」にとっては千回目こそがまさしく本命、ホンバン。
           ・・・・・当然の計画を実行したに過ぎない

法則には必ず「破れ」がある
セオリーには必ず「例外」がある

それは確率論的には0.1%に過ぎないかも知れないが
実はそれこそが致命的な100%~ものごとの全てを支配しているのだ

神の真実は常にその「一厘」にある・・・
すべてを意識している者だけが知っている・・・
その「微細」のなかに全てが宿っているのだ・・・

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