最終的な闘いとは from Katal Maneel on Vimeo.


地球を守る闘いは
ただのミリタリーバランスじゃない
ただの知恵比べでもないし、根比べでもない
最終的には価値観と価値観との闘いになるんだ・・・・

わたしは誰が悟っているだの、まだ悟っていないだのの評論には興味は無くなったが
幸運にも「ああ、この人悟ってるな」と確信をもった人物と何人か出会ったことがある

そう感じられた人達の共通項に今朝ふと、気が付いた
彼等、彼女らは性別を問わず皆、一様に
「全身がカミソリの様な鋭い感性に満たされていながら、
 同時にとてつもなくスゥイートな優しさを持っていた」ということだった

OSHOは「悟った人の唯一の物理的共通点」として
「愛に満ちている」と言ったが、
私が感じた彼等の共通点とは、まさしくそれかもしれない

つらつらとそんな想い出を巡らせていたら、
(きっと彼等のエネルギーを呼んだのだろう)
とっさにこんな事に気が付いた・・・

人はなぜ思考するのか?人はなぜ語ろうとするのか?と言えば
その理由は
「誰かに聞いてもらいたいから」
「誰かに理解して欲しいから」だ

・・・じゃあ誰に?

答えは簡単だった、
究極的には
「自分自身に」である

わたしたちが生涯を通じて最も渇望し続けているもの・・・
 ・・・それはまぎれもなく自分自身からの愛と理解だ

でもそれは逆を言えば、私たちは
自分自身の心の声を
ちゃんと聴いてあげていない
からこそ
心のおしゃべりが停まらないのではないだろうか?

気が付けば私自身も自分自身の心のおしゃべりを「五月蠅いなあ」と
迷惑がってそっぽ向いているところがある・・・

もし瞬間瞬間の自分自身をわたしが受け入れていないとしたら
まさしくそのことなのではないだろうか?
なぜそのことに今まで気が付かなかったのだろう?

自分自身を受け入れる、自分自身に素直になるというのは
儀式的に一回すれば、ハイそれでオシマイというものではないのだ
     ・・・・・それは永遠に続くプロセスなのかも知れない

昨夜見たドラマ版「スーパーガール」の一幕では
「世界秩序の目的のためには手段を選ばなくなりつつある」主人公に
ジミーオルセンが苦言を呈する

「最終的には価値観と価値観の闘いなんだ!」

もしそのとき
「目的のためには鬼になる、手段を選ばない」ならば
そのとき人々は共感出来るだろうか?

まさしく「目的と手段との分離」が葛藤を発生させる
そこで目的や動機がたとえ正しくても、もうそこに正義はない

そのとき自分自身の中での
全身全霊で言える「イエス」などあり得ないのだ

cap_最後の闘いとは_00_01_02_03