中毒、依存症というのは、
ある意味で「脳を乗っ取られる病気」といって差し支えないかも知れない

吸ってはいけないところでタバコをする、もうやめたいのに吸う
飲み過ぎだと解っていて、「もう一杯だけ」と酒をあおる
ギャンブルも歯止めが利かない

依存症というのはすぐに自分の脳内で「言い訳」が湧いてくる
つまりそれはもうひとりの自分?別の誰か?何か?
・・・が脳内にいることを意味している

いったいどちらが「本当の自分」で、どちらが「ニセモノの自分」なのか?
その真贋の基準がハッキリしていれば
「ニセモノの自分」を見抜き、その言い訳を黙らせ、
その誘惑を断ち切ることができるかもしれない

酒や煙草やギャンブルと言った典型的な依存症なら
客観的に第三者から見れば、その「言い訳」は一目瞭然なのだが
しかし「乗っ取られている人」その本人にとっては難しい・・・
だってアイデンティティー自体が移行してしまっているのだから・・・

では果たして「依存症などではない」と自認している私たちは
本当に大丈夫なのだろうか?
私たちの脳内には常にいろいろな考え、いろいろな言葉が飛び交っている
しかし「他に誰も居ない」ならば、何故脳内に言葉が必要なのか?
何故私たちはひとりで居ても脳内でおしゃべりしているのだろうか?

・・・じつはこの分裂した複数の自己というのは
   どれも〝ニセモノ〟なのではないだろうか!?

よく「スピリチュアルな人々」の用語では
「真我:セルフ」とか「エゴ」とか言っているが
脳内でおしゃべりしている
誰(どれ)が「セルフ」で、誰(どれ)が「エゴ」だというのだろうか?

・・・この分裂、この分類、この葛藤それ自体が
   すでに「乗っ取られている」のではないだろうか?

2L

つまり
「わたしは中毒患者ではない」
「わたしは依存症ではない」という人々も自覚がないだけで、
すでにとっくの昔に「乗っ取られた人達」なのではないだろうか?

しかもアルコール依存症の人は、
対象が物体であるが故に、まだしもハッキリその自覚があるが
もし「乗っ取られたかりそめの自己」で〝ありつづける〟人達は
一体どこで自覚出来るのだろうか?その依存から脱出出来るチャンスはどこに?

・・・そう考えると
   つまり「全てのアイデンティティーがニセモノの自己なのかもしれない」
   っという驚くべき可能性を考えると、
   わたしは誰も笑えなくなるし、バカに出来なくなる

酔っ払っている人は、往々にして「自分はまだ大丈夫、シラフだ」と言い張る
夢見ている人は、自分の見ている夢を「これは現実だ」としか思えない、
                      如何に荒唐無稽な夢でも・・・

そして、「自分は正気だ」「自分は正常だ」「自分は自立している」と
              堅く、強く、深く信じていればいるほど、
実は厄介な
深い精神病、深い眠り、深い中毒患者なのかも知れない

OSHO_「私はあなたを全てのガラクタから解放したい」 from Katal Maneel on Vimeo.