青年時代の思い出を二つほど・・・

私が中学生の時 我が家には白い中型犬がいた
性格は優しく穏やかで 従順だった
特に私に懐いていたので 散歩は私が担当することが多かった
この子は性格は良かったんだが 今一つ観察力には欠けていた
道の端っこを通りたがったから鎖を持つ私との間に
よく電柱が絡まってしまい、それごとに散歩は中断される
・・・当時まだ中学生で思いやりがなく短気だった私は
   この状態になるとよくこの子に腹を立てて叱りつけた

 従順だったこの子は叱られる毎(ごと)に、
 「自分がなぜ 叱られているのか?」
 洞察するよりもしょんぼりとうなだれてしまい
 ますますキチンと前を見ずに歩くために
 ますます障害物にチェーンが絡まってしまった・・・

飼い犬にとって唯一の生きている喜びを実感できる時・・・
待ちに待ち焦がれた「食事」と、そして楽しいはずの「散歩」なのに・・・

いま思い出しても
「ひどく冷酷な飼い主だった私自身の姿」を思いだし
      胸がシクシク痛む思い出であると同時に
あの子のうなだれてあるく姿は私が作り出した
「もう一人の孤独な私」
「いつも切羽詰まった感情で苦しんでいた中学生の私」
であったとも思う・・・

  もうひとつの思い出、
   それは「我が家の雰囲気」全体だった

我が家にいつも蔓延していた緊張感とは、一言で言えば
「家族の一員であることに伴って存在する“義務”」の意識だった
父も母も極めて真面目(であろうとした)夫婦だった
元財閥系の厳めしい体質の企業に家族の生活はすっぽりと包まれていた
文字通り「ゆりかごから墓場まで」「世間体がすべて」の生活だった
その中で気が狂わんばかりだった長男の私は
「我が家の恥、汚物」として生活していた
わたしは
「やむをえず育ててもらっていた」長男だった
そしてその私自身にとってそれが
「家族とはなにか?」というモデル、プロトタイプのイメージとなった
私という存在は「生まれながらの失敗作、家族の不適合者」であり
そしてその背後にある概念とは「失敗は罪である」というものだった

多分私の「正解への執念と怨念」はいまも人並み外れたものだろう
それがいままでの私を作ってきた

ここまで読んでくれた人はもうお気づきかもしれないが
このふたつの私の思出話は深くリンケージしている

私のいままでの人生は「失敗への恐れ」に満ちていた
そのことを遠い過去の思い出であった白い犬「チロ」の、
私に叱られたときの悲しい目がずっと訴えかけていてくれたのだ

よく「親のひどい欠点を自分は絶対繰り返すまい」という決意が
見事に自分自身を裏切り、
親とそっくりの欠点を自分自身に見いだして愕然とする・・・

そんな話を聞いたのみならず実体験している人も多いのではないだろうか?
でもまさしくその「決意」こそが・・・
「親と同じ失敗は絶対に繰り返すまい」という自らの強迫観念こそが
まさしく私たちに「親と同じ失敗」へと導くのだ