私たち自身の身体も含め、私たちは〝もの〟に囲まれて生きている・・・
そして〝もの〟と表現すると
それはあたかも意思も生命もないものの様についつい思ってしまう
私たちは地球の表面に日常で生活していて、
地表の自然物、人間がいじった都市の文明、建造物などを私たちが見て
それらを生命体の一部だと考えることはあまりない
それらは私たち生命を確かに〝育んで〟はいるのだが・・・、
確かに〝生かして〟くれてもいるのだが、
だからといってそれが母親の様に「意思を持って、」「意図を持って」なのか?
っと問うならば、なかなかその様には見えない・・・
一応「地球ガイア説」は理論としてはあるが、
じゃあ私たちが本当に
「生きた生命の母親」である惑星の上で生活しているのか?
と問うてみても、なかなかその実感は伴わない
・・・だから私たちは平然と地球の環境を破壊し続けてきた
ところがそれだと自分達のクビを締めることになると一応解ってきたからこそ
取って付けた様に「地球ガイア理論」なんかを引っ張り出してきているに過ぎない
でも、今改めて〝もの〟とは何か?と考えて見ると
〝もの〟とは一種の「記憶力のカタマリだ」と見なすことが出来る
物体とは人間の意思とは(一見)無関係にただ、そこにあるもの・・・だ
人間が犬に「伏せ!」と命令するまでもなく、ずっとそこにあり続ける・・・
だからそのことを私たち人間(動物)は
「コイツには生きた意思が無い」
「これは無生物だ」と判断する
たぶんその他の動物も、エサを探したりして「コイツは生きているか?否か?」と
判断しているのではないだろうか?
植物は確かにジッとしてはいるが、個性のある香りがあるし
石ころと違って生き生きしている・・・だから草食動物は「コイツは喰えるな」と判断する
動物と植物とでは、タイムスケールが違うというだけの話だ
定点カメラで植物を撮影してみて、それを早送りで再生すれば
植物だって激しく生命活動を営んでいることが解る
私たちの皮膚の上にいるダニだって、
わたしたちの皮膚を「生命体の表面だ」とは到底考えられないかも知れない
単に「ダニはそこまで判断できる知性など無いだろう」と私たちが憶測しているが故に
・・・つまりわたしたちも昆虫たち、微生物たちの時空間のスケールを実感できないから
日常ではそんな風に実感できないだけだ
でっかすぎても、ちっちゃすぎても、生命は生命に見えない、実感できない
時空間のスケールが違う対象は、生命に見えない・・・ただそれだけのことかも知れない
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全ての物質が、おのれの独自の特性のまま、それに忠実に従っている
それは「記憶力」と呼んで差し支えないだろう
そして「記憶力」の背後には意思が存在する
私たちの肉体はもちろん、私たちを取り巻く〝すべて〟が!だ・・
すべてのすべてが、おのれの「ありのまま」を持続し続けている・・・
それをわたしたちせっかちな人間が自分中心にしか見ずに
「コイツは生きている」「こいつには生命はない」と勝手に判断している
無機物が有機物に進化し、有機物が生命に進化し
植物は動き回る動物を産みだし、哺乳類が人間を生みだし・・・
・・・そして地球上でもっともせわしない、
情緒不安定な、
・・・クレイジーな私たち人間がここにいる
そして地球上の万物を自分のフィーリングだけで勝手に分類してきた
しかしその識別心よって私たち自身がとてつもなく不幸に陥っている様に思える
わたしたちの「生命の定義」はまだまだ非常に幼稚なのではないだろうか?
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