いわゆる〝危険ドラッグ〟を試したことはあるだろうか?
種類は無数にあり、もちろん所持するだけで非合法なものもあるが
その個性は様々だが、いわゆるサイケデリック・ドラッグとは一様に
〝意識の拡張剤〟である

アルコールだって広い意味では
「気がデカくなって笑い転げたり、ケンカをふっかけたりする」という点では
サイケデリクスという程ではないが、紛れもなくドラッグの一種だ

なので、普段は矮小化されたり無意識のうちに抑圧された、いわゆる
潜在意識~サブコンシャスの部分が表に出て来る・・・

・・・そういう意味では、「自己発見」の為の一助ではある
わたしも数年前はずいぶんのめり込み、溺れきって命も危うかったが
結局のところは、〝飽きた〟ことによって無事に生還できた

・・・もちろん、どんどんエスカレートして廃人に成り、命を落とす人が
   世界中で山程いるだろう

   なのでわたしは自分が「なぜ生還できたのか?」ずっと疑問だった

  ひとつには「自分自身と向き合うコツを掴めたから」不要になったとも
  自己分析していた

  今日新たにひとつの仮説をここに書き残してみようと思う

ドラッグにせよ、あるいは宗教的な修行にせよ、
それは〝追求だ〟という点では実は共通点がある

快楽や脳内の幻想を追い求めるにせよ、神の御心を追いかけるにせよ
「追い求めている」ことにおいては同じなのだ

しかし、
「求める」のはいずれにせよ男性原理のなせる技であり
女性原理は「与える」ところにそのポイントがある
そしてドラッグで得られる快感の〝限界〟も、この男性原理の中にある・・・
・・・と言うのがわたしの仮説だ

快感の原点は「女性原理」にあるのだと思う
だからドラッグで陶酔、至福感を得ようとすると、
その「得ようとする」のは男性原理だが、その目的は女性原理への到達にある

快楽というものを極限まで究められるのがドラッグ体験の凄まじいところだ・・・
その行き着く先は「エゴの崩壊」であり、「人格破綻」「廃人」だ

強烈な快感に至る上でもっとも邪魔なのが、自我という境界線で
「行こう」とする意思そのものが「行かせない」という障壁になる・・・
この境界線を突破した先にはもう「守るべきものがない」状態になり
「すべてが解放された」「アンコントロール」な状態になる

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だからドラッグにせよ宗教的な求道者にせよ、
何かの「志し」に生きる者達にせよ
彼らは皆、広い意味では〝自殺志願者だ〟といえるかもしれない

・・・その先には間違いなく「破滅」が待っているのだが
   そもそもそれが「望み」である人達にとって
   その「炎に飛び込む夏の虫のような狂気を
   世間から「愚かだ」と揶揄されて
   かれらが思いとどまるはずはないのだ・・・

阿羅漢(ストレートに悟りを求める人)とはそういうことなのかも知れない
彼らが飛び去ったあとには、痕跡は残らない、道は残っていない
飛び去ることだけが目的だった彼らは、そんな事には頓着しないのだ

しかしOSHOは、
「出来るならば私の人達には菩薩道を歩んでもらいたい」と言い残している

阿羅漢が男性原理の究極として「無への帰還」を成し遂げようとするのに対し
菩薩道は「この世との接点」を残す、・・・後から続く人達に慈悲を残す

菩薩道とは阿羅漢と正反対の、実に女性的なコースだと思う
それは「与える」原理に則った、一見「損」で「遠回り」な選択なのだけれど
でも、あながちそうではないかも知れない

「快感を求める」のではなく
「快感を与える、・・・ことが悦び」という姿が菩薩道だ

ある意味では〝慈悲〟とは「美しい嘘」と表現できるかも知れない
確かに阿羅漢のような「真実一路!一直線!」のプロセスには
           「嘘偽りは全くない」のかもしれない

 ・・・そこには「徹底した〝独り在ること〟~アローンネス」がある

「弟子とマスター」といった慈悲で繋がった関係とは、その点「甘い」・・・
          そこには「甘い方便」「スウィートな関係性」がある

しかし、
本当には「得る」ことではなく「与える」ことにこそ至福の本質があり、
本当には菩薩道とは「人(弟子)のため」ではないのかも知れないのだ

つまり阿羅漢よりも菩薩の方が、
本当のところ〝欲張りな選択〟なのかも知れない ・・・っと

それはまるで、
直球ど真ん中を語るクリシュナムルティーと
様々な変化球が得意なOSHOとの違い、そのもののようだ