今朝は、久しぶりに部屋の掃除に精を出した
すると以前ネットで見かけた「セルフ・ネグレクト」という言葉がよぎった

セルフ・ネグレクトとは自己否定の一種であり、その行く先には「自殺」がある
でも、真にセルフ・ネグレクトの中身とは「自己否定」では無いと私は思う

「自分自身の否定」なのではなく
「自分自身の〝面倒を見る〟ことの拒絶」というのが
本当のセルフ・ネグレクトの内容なのだと思う

「自分自身を維持管理することがウンザリしてしまった」
いわゆる「人生に疲れてしまった」というわけだ

IT社長「起業家は筋トレした方が良い」 これホント?専門家に聞くと

経営者が筋トレしている姿とセルフ・ネグレクトとはある意味正反対だろう
自己イメージに対して
「自信に満ちた」姿と「自信を喪失した」姿とが好対照だ

私自身も
セルフ・ネグレクトに陥り、部屋がメッチャクチャになる事は良くある
そんな時は、ホンのちょっぴりでも部屋の掃除をはじめると、
いわゆる〝風水効果〟なのだろうか?、セルフ・ネグレクトから脱却出来る

しかし、この「ホンのちょっと」の部屋の掃除への着手が
セルフネグレクトに陥った人間にとっては登山に出かけるが如き
高い高いハードルに見えるものなのだ

だからいわゆる開運法として部屋の掃除を薦める人は多いが
その背後にあるセルフ・ネグレクトの脱出への道筋を示せないのは
手足をもがれた芋虫状態の人に筋トレを推奨するようなものだ・・・

セルフネグレクトは、いわゆるスピリチュアルな
「自己放棄:サレンダー」や「自己献身:デボーション」とも
言葉の表現上ではよく似ている

・・・この混同がますますセルフネグレクトを
   長引かせる(こじらせる)ことは
   わたし自身が何度も経験した

でも実際に部屋の掃除をはじめてみれば、
それは「不要になったモノの見切り」に過ぎないのだとすぐに分かる

だから
セルフネグレクトの「自分」と
サレンダーとかデボーションの「自分」とは明らかに別物なのだ

セルフネグレクトの〝セルフ〟とは、
明らかに「とっくに過去の見当違いになった自分への固執」なのだが
当の本人にはなかなかそれが気が付かない・・・

それは部屋の中でシンクロした不用品がかならず存在している

しかし
私は必ずしもセルフネグレクトが〝悪い〟とは思わない
部屋は不用品だらけでメチャクチャにはなるが、
これは一種の「繭(まゆ)」みたいなものじゃないだろうか?
それは焦らずともサナギから蝶が羽化する春が来れば必ず自然に抜け出せる
・・・今は自分が芋虫のように見えても、焦りこそが禁物だと思う

一番この羽化を遅らせてしまうものこそが、
この〝焦り〟なのだと私は確信している

そしてこの〝焦り〟の正体とは、
他者との比較だったり、世間の目、社会の常識だったりだと思う

この「外部からの侵入」を許してしまうと、
サナギの中の芋虫は蝶になる為の自然なプロセスを阻害されて
死んでしまうだろう

サナギの中で葛藤する芋虫くんは、
マインドの中で「自己否定」と「自己肯定」とを繰り返し、ループさせ
それが葛藤と呼ばれるものになる

この時、もっとも大切な「世界との遮断」の城壁、殻こそが
「過去の自分の溜め込んだもの」なのだ

いわゆる「ひきこもり」「ニート」とか、モラトリアムというのは
このサナギの期間の人間達、・・・なのだとおもう

この時期、もっとも陥りやすい危険な罠が
「自己承認願望」に我を忘れてしまうことだ
・・・これに埋没し、エスカレートして「我を忘れる」と
   人はあらゆる競争と争奪に取り憑かれ、場合によっては殺人さえも起こす

 ほとんどの人々が、ここに人生を費やし死んでいったのじゃ無いだろうか?
 結果として、「ママのおっぱい」を求めて私たちは何度も生まれ変わってきた

セルフネグレクトの先には「自殺がある」と書いたが
自己承認願望の先も一種の自殺なのだ

古くなった自分、あらゆる過去との自己同一化を「脱ぎ捨てる」自殺か?
それとも自己肯定の為のあらゆる自分の鎧との無理心中か?
・・・そのどちらもが〝自殺〟だと表現出来るが、その内容は正反対だ

人間に限らず生き物は皆、
自分自身のあらゆる人生の段階、季節を楽しみ、良く味わい
愛することが、本当の愛への第一歩なのだと思うし
それこそが「いまここ」であり
もっとも自然な、健全な成長、成熟を促すのだと思う

そして人は、何度も何度も羽化を繰り返し、
「無」へと脱皮していくのだと思う

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