「進化」という発想をゴイム共に信じ込ませれば、私達の勝利だ
人は「進化」なぞしない、(人は結局、「どこにも行けやしない」のだ)

シオンの議定書

善悪とか正誤と言った直線的な論理から
〝パラドックス:逆説〟的なものごとの理解に向かう時とは
人生における大きなターニングポイントだ

それはまるで
ウロボヌスのヘビが、自らを飲み込んでいって、その円環が極小化していく様だ

人生は単純化し同時に複雑化してゆく、人生上の様々な葛藤は
エントロピーが逆転したかの様に小さくなっていく

「大きいこと」「小さいこと」が単純に比較できず
森羅万象のユニークさを認めはじめると、誰もがそうなってゆく

しかし
その「飲み込む頭」と「飲み込まれていく胴体」とが消滅する日は決して来ない

「黄金律はない、と言うことが唯一の黄金律だ」ロバート・ショウ

ところがこの「唯一の黄金律」が「黄金律」として最後まで残り続ける・・・
なぜなら人は最後に
この「唯一の黄金律」「パラドックス」の信者になってしまうからだ

これが最後にして最大の、最終的なワナとして、私達の脳内に残り続ける
パラドックスでさえロジックの一種であり
そしてロジックは決して「無」を理解は出来ない

それがロジックであり続ける以上は、「問い」と「答え」が残り続ける

OSHOやクリシュナムルティーは、「私は何も信じない」と言明しているが
それはあくまでもインタビュアーに「問われた」から「答えた」に過ぎないのだ

彼らの本当にピュアーな回答を求めるなら、
きっと覚者達は皆、沈黙を持って回答とするだろう・・・

・・・でもそれでは誰もがかれらが解答自体を拒否したのだと誤解してしまうだろう
   だから質問者と、神秘主義者達との最後の折り合いが付くポイントが

   「私は何も信じない」だ

   それは「何も信じない」ことそれ自体がひとつの信念体系の様に見えてしまう
   人は何かをみたらそれを既知のカテゴリーのどこかに放り込みたいのだ
   だれもが「あれか?」「これか?」という粗雑な選択の自由しか知らない
   だれもが自らのこころの奴隷だからだ

   彼ら「質問の奴隷達」は「未知のままでいることが居心地が悪い」という
   自己都合で勝手な意味づけ、価値付け、解釈に逃げ込んでしまうが
   それらに対してさえ妥協できなくなった時、もはや沈黙だけが唯一の解答になる

でもそれは同時に「他者から理解されることの放棄」でもあるのだが・・・

しかしそれによって「ウロボノスのヘビ」は消滅する
「ウロボノスのヘビ」それ自体が、他者に向かって
「無とはなにか」をロジカルに順を追って説明する「方便:うんこ」に過ぎず、
そんなヘビは、はじめからこの世には居ないからだ

人は最後まで「進化」という概念をなかなか手放したくないものだ
「高次元への霊的進化」であるとか、天使や宇宙人の存在にすがりつきたいモノなのだ

そういったモノが全部「戯言だ」と馬鹿にしているのではない
それらが喩え実在していたにせよ、それらもあくまで「方便だ」ということなのだ
でもひとは「分かりやすいイメージ」にしがみつき、
そして「信念体系のよりしろ」に祭り上げてしまう
人間の脳は「何かに属している」ものしか認識できない様になっている
「これこれに関して、あなたは否定か?肯定か?」

でもそれらの問いかけは全て、
「究極の向上心」
「究極の進化、アセンション」という大義名分から発している・・・

この「信仰」からすべての動機が発している以上、
高度なパラドックスも叉、言葉遊びの堂々巡りで終始する
だから詰まるところは「進化の否定」「沈黙」しか残されていないのだ

だから
「12」という数字の意味する「カルマ的堂々巡り」と、
「13」という数字の意味する「死と再生」の間には深淵のジャンプがある

それは「進化」からの脱皮だ