この世界のどこを探してもマイホームなどない・・・
・・・その洞察に辿り着いた者だけが全世界を我が家に出来る By OSHO

孤独に悶え苦しんでいた若い時、私は自分の「ふる里」を死に物狂いで探していた
何と言う馬鹿なことだろうか?

でっち上げられた「ふる里」、生まれたあとから見つけた「マイホーム」が
「我が家」であろうはずがないじゃないか?

孤独な男は、女を捜す、母の面影を探す、愛を探す、心のふるさとを探す・・・
幸運なことに、私は生まれてくる時、この「ふる里探しの探求者」として
申し分のない完全な環境、あり得ない程孤独な環境に生まれた
私の生家とは、私にとって生まれた瞬間からすでに「生家」ではなかった
両親は若いウチから義務感だけで夫婦を続けていていがみ合っていた
社長令嬢だった母は、恵まれていることが当たり前で
「愛とは何か?」一瞬たりとも疑問に思った事がない女だった
だから父はずっと、とてつもない孤独を味わっていた

私にとって母という女は、子供のうちは優しいだけの存在だったが
その「優しさ」の正体が実際には打算とエゴイズムであることを
私は子供のうちから何となく察していて
父と同じように激しい孤独感を常に抱いていた
大好きで優しいはずの母の手を握り、街を歩いていた少年の時も
自分が何故こうも酷く寂しかったのか??
その自分の気持ちが不思議で不思議で仕方なかったが、
その理由は現在の自分ならハッキリ言語化出来る

だから今がある
物理的には豊かでありながら、
精神的には義務感と世間体だけが支配する家族関係・・・
冷酷で真っ暗な精神状態の家、地獄の釜のような欠乏感を抱えた母・・・
たぶんある意味では「みなしご」以上に孤独な状況だった

当然私は「心のふるさと」を探す旅をせざるを得ない環境だった

わたしは霊的世界に「こころのふるさと」が見つかるのではないか?と期待し
いろいろな宗教を遍歴した

宗教が扱う世界、目指す世界は「無限の霊的世界」だが
宗教団体そのものは、この「有限の世界」にある

つまるところ「地上に霊的楽園を実現させようとする」全ての試み
すべての霊的な団結は虚しい  ・・・そこには必ず「始まりと終わり」がある

それをわたしはいくつかの宗教団体やコミューンで目撃してきた
たとえどれ程の愛情と気遣い、善意を人々が持ち寄っても
「つくられた人口の家」が人の心のふるさとになる事など、決してないのだ

人とのきずなも同じ事だ、それは「団体」だけではない
プライベートな男女の関係も叉、「あらわれては消えてゆく」泡のようなものだ

誰かに「愛を求める」・・・ 何かに「ふる里を求める」・・・
その「求める」「期待する」「信じる」ということ、それ自体が
「でっち上げられたものであること」の動かぬ証拠なのだ

あなたが恋人にキスを求める、ハグを求める
恋人は応じてくれるかも知れない・・・

 しかしそれ自体が「応じられたもの」なのだ
  けっして「そこにあったもの」「ありつづけるもの」ではない

   それを「愛」それを「ふる里」と呼べるだろうか?
   私達はますます欲求不満になるだけだ、ますます餓え、渇いていく

「求めて」得てたものは、絶対的に「去って」ゆく宿命を負っている

決して求める必要すら無いもの
決して去らないもの、決して死なない永遠不滅のもの・・・
それだけが「私の不滅の王国」「私のふる里」と呼び得るものだ