映画「マトリックス」において、
私が最も重要だと思っている、そして大好きなシーンは、
モーフィアスがネオに覚醒を望むか?否かを選択させるシーンだ

2017-05-23 (1)

私はこのシーンを、このブログで何度も引用してきた



わたしたちはたぶん、生きている間、四六時中・・・、
「赤いカプセルを飲むか?青いカプセルを飲むか?」
                      選択肢続けているのだ

・・・わたしたちはずっと青いカプセル(気休め、安定剤)を選び続けている
              だからいつものベッドの上で目が醒めるのだ

そして今日も一日、「私は覚醒している」という「白昼夢」を見続けている


っと、OSHOは語っているが、
ここでOSHOがいう〝信〟とは
    「信念体系」のことではなく、「信頼」のことだろう
ここでOSHOがいう〝信〟とは、
    「特定の何かを信じ込むこと」を言っているのではない

むしろ
「特定の信念体系の中に埋没する(しがみつく)」ことこそが〝恐怖感ゆえ〟だろう

〝信〟が「あれや」「これや」といった
特定の何か限定された信念体系でないならば「信と不信」とは対立しない
ここでOSHOが肯定的な意味で語っている〝信〟という言葉は
モーフィアスがネオを評して言っているセリフと同列のことだと私は思う
「君の目が語っている・・・」
「キミは見たままを受け入れる顔をしている・・・」
「目覚めたいと思っているからだ・・・」

 ・・・私にとって、本当の「信念」とはまさしくこの〝覚醒への憧れ〟のことだ

本当の真実、ありのままの真実に目覚めたいと願うことだ
          その為の純粋なまなざしを失っていない人のこと・・・

私にとって、本当の「信念」の人とはまさしくそんな人のことなのだ・・・

だから
ここでいう「信念」とは岩の様な〝堅さ〟ではなく〝柔らかさ〟〝繊細さ〟
ここでいう「信念」とは、〝頑なさ〟ではなく〝素直さ〟〝機敏さ〟のことだ

  であるなら、そんな純粋なまなざしを濁らせるものとは何か?
                ・・・それが恐怖というわけだ

恐怖とはまさしく、「純粋なまなざしの濁り」を意味するのだと思う

恐怖感は、わたしたちを「開きメクラ」にしてきた
恐怖感は、「夜風にそよぐ柳」を幽霊に見せるのだ、しかもハッキリと・・・
恐怖に取り憑かれた者にとっては、「見るもの」「聞くもの」・・・・
五感で感じるものすべてが
「自らの恐れが正当なモノである証拠」になってしまうのだろう

OSHOが言う様に「信の反対が恐れ」であるならば
きっとそれは「覚醒の反対が眠り」であるのと同じだ

「恐れ」とは、まさしく「目を見開いた眠り」のことなのだろう

「恐れ」たまま、ものごとの「ありのまま」を見ることは決して出来ないのだ
そこにはいろいろな脚色、解釈、投影が為されているが故に
バーチャルリアリティーさながらの迫真のリアリティーで
「夜風にそよぐ柳」が幽霊に見えるのだ・・・・

そうしてわたしは、目を開けたまま、眠り続けていた・・・
恐怖やら怒りやら欲望にのめり込んで、目を開けたまま悪夢を見続けていた
夜見る夢は、朝と共に夢だと分かる
ところが厄介なのは、「目を開けたまま見る白昼夢」だったのだ・・・
 ・・・それはなかなか「今自分は夢を見ている」という自覚に至らないからだ
 
  「マトリックスはすべてだ・・・」
    「今この目の前にもある・・・」

自分が目を開けたまま、自分が「夢を見ている」だなんて
いったい誰が自覚できるだろうか?

それゆえに
恐怖感が見せる「目を開けたまま見る夢」・・・
・・・・その正体を、誰もがなかなか見抜けないのだ