いま、夢を見た
男女の友人達と旅に出る夢だった
私は途中、何度も間違えた、何度も忘れた
そして出発点に引き返えさるざるを得なくなる夢だった・・・

私は友人に済まない気持ちで一杯で恐縮してしまったが
彼らはフレンドリーな態度を全く変えずに愉快そうに笑っていた

そして引き返すして出発し直すごとに、
まったく違った光景が展開するのだった

・・・その「夢の中の私の失敗」をここで弁明するならば
  出直すごとに状況が変わってしまったからだった・・・

   だからそれごとに必要なものや、その他旅の設定が変わってしまい
   旅をはじめからやり直さざるを得なかったのだ・・・

それは決して「ゴールを急がない」旅であった・・・

 「旅を楽しむこと」
 「ハプニングを楽しむこと」

  ・・・それ自体が、きっとゴールだったのだろう

夢から覚めて思った

眠りにつく前に見かけたOSHOの二つの言葉が思い出された

「なぜ人は恐れるのか?
「なぜ人は自らを批評したり、他人のお節介を焼きたがるのか?

・・・それはまず、自分自身に対する無限の忍耐を持つことが出来ないからだ

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   もし、自分自身に対して無限の忍耐があるならば、
        いったい何故失敗を恐れる必要がある?

   OSHOが言う「絶対的な信」というものを私なりの言葉に言い換えるなら
   「自分自身に対する無限の忍耐」である  ・・・まずはこれが原点なのだ

   そしてこれが見い出されたならば、「類は友を」呼ぶのだから
   本人と同じように、
    「自分自身に対する無限の忍耐」を得た友人達と出会えるだろう


わたしは他人に対して、
 すでに「無限に(末世まで)待つ」覚悟を決めていたつもりだった
   ところが自分自身に対しては今だ「苛立つことが」あったのだ・・・

そうなると、幾ら他人に対して「無限の忍耐」「無条件の愛」を持っていようが
それはすぐに揺らいでくる・・・  それはあまりにも当然のことだったのだ!

そしていくら「他人を批判するのはやめよう」と、脳内で決心したとしても
そんな決心はすぐに決壊してしまうのだ ・・・またかならず他人への批判やあら探し
・・・そして老婆心な「他人への心配」が、かならず首をもたげてくる

それらもこれらも、
自分自身への忍耐に〝限界〟が設定されているからだ、〝有限〟だからだ

自分が自分自身に対して
有限の、条件に縛られた〝信〟しか
持ち合わせていないと言うことは、
とりもなおさず、
自分自身に対する「愛の限界、有限性」を認めることなのだ

そしてこのことは、
自己の意識が実際に「有限か?不老不死か?」など関係が無いことだ

なぜなら、私たちそれぞれの意識がたとえ肉体と共に滅んだとしても
自分自身にとっては、自己の意識の存在は唯一絶対であり、
もし、「私という意識」がいつかどこかで滅んだとしたならば
それと同時に、この世界も終わるからなのだ

「誰か他人」にとってはこの世界は存続しているかも知れない
地球にとっては、あなたの消滅は70億人の中の一人の消滅に過ぎないかも知れない
でもあなたにとって間違いなく唯一の存在とはあなた自身なのだ

そしてその、紛れもなく唯一絶対の存在であるあなたに対してさえ
あなた自身が無限の忍耐を持ち合わせていないなら、
じゃあ、いったい誰に対してならもてるというのだろうか?

・・・あるいは「自分自身に対しては無条件の愛、無限の忍耐は持てない」としても
  しかし
「誰か、愛する誰かに対してなら・・・」
「無限の忍耐、無限のパワー、無限の勇気を持てます。無限の時間を待てます」
っともしあなたが言うのなら、ではそのパワー、その勇気、その忍耐力は、
「誰が」持っているんですか?・・・ということだ

もしあなたがその持ち主なのだったら、なぜそれを自分自身には適応できないのだろうか?

・・・結局のところ、「無限なる源泉」「無条件性」とは、対象を選ばないものなのだ
 もし適応対象、適応範囲が〝有限〟であるならば、すなわちそれは〝無限〟とはいえない

最初にそれを発見するのは
「自分自身に対して」発揮している時なのか?
「誰か他人に対して」発揮している時なのか?
・・・それは関係ない

つまるところは、それは自分の中に発見できるか?否か?の問題なのだ

そしてひとたび、それを自分の中に発見できたならば、
いったいどうやって〝その無限性〟を失うことが出来るだろう?
いったいどうして〝その無限性〟を他人に対してケチったり隠したり出来るだろう?

Brian Eno - An Ending (Ascent) Hour Long Version from Katal Maneel on Vimeo.