恐ろしいということはどういうことだろう。
人が恐れている時、内側には
どんな状況があるのか。
そうなって欲しいのに、
またそうなって欲しくもない。
これが恐れに満ちたマインドの状況だ。
彼は行きたい。
そして、また恐ろしくて行きたくない。
そうしたいのだが、確信はない。
決断できない。

イエスは、常に「恐れ」という言葉を使った。
信と対立させて何度も使った。
信に対立する言葉として、
「不信」とか「疑惑」という言葉を
使わなかった。
イエスは、信に対立させて、
いつも「恐れ」という言葉を使った。

イエスは、
恐れることのない者は、
信に到ると言った。

信とは決意、
信とは決断、
全面的な決断のことだからだ。

人は全面的に
その中に入っていく。
それは背後にどんな保留も残さない、
無条件の信頼だ。

それが、
撤回されることはあり得ない。
全身全霊で動いたならば、
誰がそれを撤回しえよう。

信とは、
絶対的なものだ。
入ったら、入ったのだ。
そこから出て来ることはあり得ない。

それは奈落への跳躍だ。
だから、恐れを信の反対語とした
イエスはまさに正しい。
それまでそういった者は
誰もいなかったが、
イエスは全く正しい。

彼は外側の言語に
かかわっているのは、
内なる実存の言語だ。
人が信に入っていくのを
許さないのは恐れだ。
それは不信ではない。
いいかね、
人が信に入っていくのを邪魔するのは
不信ではない、恐れだ。

無論、人は自分の不信、
自分の恐れを正当化する。

「私は懐疑的だ。私は疑っている。
全面的に確信していないのに、
どうして入っていける」
と言葉で言い繕う。
だが自分の内側を深くのぞき込んでみれば、
そこに恐れを見出だすはずだ。

恐れとは、
自分の半分は行きたいのに、
あとの半分は行きたくないということだ。
半身は未知なるものに
そそのかされている。
その呼び声を、
その招詞を聞いたのだ。
そして、半身は、
未知なるものを恐れ、
既知に執着する。
なんと言っても、
既知は既知だ。
そこに恐れはないからだ。

何かをすれば、
その何かは既知のものになる。
今、
あなたが新しい仕事、
新しい生活形態、
新しい習慣、
新しいスタイルに
入って行きたいとする。
と、あなたの半身は
今までのものに執着する。

それは言う。
「動くな。今より悪くなるかも
知れないじゃないか。
それに、一度行ってしまったら、
戻って来ることはできないんだぞ」と。

つまり半身は
「執着せよ」と言う。
この半身は
過去に属している。
過去とは、
既知なるもの、
記憶だ。

そして、もう一方の半身は、
常に興奮している。
未知なるものへの、
海図のない航海への呼び声を
感じている。

新しいものに対しては
人は夢中になるものだからだ。

これが恐れだ。
人は二つに分断される。
恐れが人を分断する。
そして、
分断されたら、
そこにあるのが不決断だ。
一歩を未知なるものへ
踏み出したのに、
もう一歩は過去に
過去の墓穴の中に残したままだ。
そこで人は行き詰まる。
誰も片足では動けない。
誰も片方の足では、
一本足では動けない。
二つの翼を使わなければならない。
両方をそこに
持ち込まなければならない。

そうやって、初めて人は
動くことができる。
不決断であれば、行き詰まる。
そして、誰もが行き詰まっている。
それが問題だ。
それこそが不安だ。

人は行き詰まり、
動くことができない。
「生」は流れ続けている。

ところが、
あなたは岩のように
こり固まって、
行き詰まっている。
過去の虜になっている。

OSHO

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