💛無条件の愛について – アセンション最後の課題 by クートフーミ – ライトワーカー・ジャパン

逆に「条件付きの愛」を考えてみる・・・

すると「そんなもの有り得ん」とわかる
つまり「無条件の愛」と「条件付きの愛」との
二種類の愛が存在しているわけでは無い、と言うこと

であるなら、「愛とは無条件性、そのものだ」ということになる

もし「こ~だから愛す」「あ~だから愛す」というならば
そこには教育方針であるとか、理想であるとか、理念が入り込む
実際のところ、そういう「条件付けすることが愛なのだ」という考えは今でも根強い

もし「そのような理念、その他の条件付けが愛なのではない」ということならば
そこではじめて単なる
「無条件の愛」ではなく、
「愛とは無条件性、そのものだ」と言える

あらゆる躾や訓練、教育の<前>から、愛は存在することになる

ある種の能力がないから愛せない、訓練が出来ていないから愛せない
犯罪を犯したから愛されない、家族を殺されたから愛せない、ということはないはずだ

上記の「愛せない」は「許せない」「受容出来ない」と入れ替えても成り立つ
っということは、「愛」という言葉は「許容」や「受容」という言葉でも代行できる

もしあなたが何かの経営者であれば、誰かを雇用する上で
まったくの無条件でいることは不可能だろう
何を経営するにせよ、必ずある一定の能力を持っていなければ雇用することは出来ない

もし、「無条件の愛」を看板に掲げるなら、あらゆる経営はすぐに破綻する
しかし、言葉通りの「無条件性」とは、ありとあらゆる分野、カテゴリーに浸透してくる

ここに「スピリチュアリズムの危険性」がある
「無条件性」とは、「全く何の壁も仕切りも区分けもないこと」を暗示している
まったくの「ノーガード」「ノーカテゴリー」「ノーディメンジョン」の性質を意味する

あらゆる分野への無限の浸透力を、「無条件の愛」という言葉は示唆している
ところが今でも多くの人々が「愛」という言葉を、
さまざまな具体的な〝行為〟だと考えている・・・ 
それは「許容」や「受容」であるとか、
具体的には「微笑み」「優しさ」だったりとか・・・


「経営~金儲け」や、「法律~社会秩序、組織の規律維持」という観点からすれば、
それらは「とんでもないこと」「破綻、破滅」なのだが・・・
「無条件性」とは、そんなことにお構いなしにどんどん浸透(浸食)してくることなのだ

・・・このことに関して、
  いわゆる「スピの人達」はいまだに無頓着すぎる様に思えて仕方ない
  これらの概念の危険さに無頓着に
 「無条件の愛」という言葉を振り回している様に見える

「無条件性」をあらゆる社会システムに持ち込めば、そのシステムは即死するし
「無条件性」にあらゆる社会システムを持ち込めば、無条件性は即死する

つまり、「無条件性」と「システム」とは水と油なのだ

「無条件の愛」という心地の良いピンク色のハートを看板にして、
それで安易に商売にすることに、
イエスが激怒した「神殿の前での両替商」の姿が、私にはダブって見える

「無条件の愛」というのは誰かに対する宣伝文句である前に、
人々が銘々、自分自身の中心に対して向けるべき言葉であって、
それは「沈黙の言葉」であるはずだ

つまり、
言葉で誰かに語られた瞬間、
もう「無条件の愛」は「無条件の愛」ではなくなってしまう

「無条件の愛」を殺す為のもっとも最短ルートは、その〝言語化〟なのだ

それは宣伝文句には使えない、スローガンに出来ない、市場で売ってはいけない、
それは口で語られた瞬間に嘘になり、さらには毒になる可能性が高い

「無条件の愛」が可能なのは、まずは自分自身に対してだけだ
自己の内面に対してだけは社会システムが入り込まないサンクチュアリーがある
「無条件の愛」を自分の内面に発見できた者だけが
沈黙の中にあっても
「無条件の愛」を全身で体現している・・・ 
 無色透明の静けさを放射している・・・

自我、の中に「無条件の愛」は見つからないだろう
つまり
自己の内面に「無条件の愛」を発見する、とは、自我という分裂の消滅なのだ

「無条件の愛」は自己の内面に「超伝導=抵抗値ゼロ」という現象を起こすからだ
その様な無限の自己受容を実現した人の言葉にして初めて、
「愛の無条件性」は、無垢、無償、無邪気、無制限な浸透力を体現しているのだと思う