どんな事をしても取り消されないモノは?

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この世で見るもの(対象物)
聞くもの、嗅ぐ香り、味わい、感触・・・

・・・すべてのものは疑い得る、取り消し可能だ



しかしそれを感じている主体は・・・
・・・それだけは取り消し得ない

誰も、あなたの感じたことを証言できない、
あなたが法廷に立たされても、証言者は誰も居ない
そういう意味で、誰もがたったひとりだ、この世界でたったひとり・・・

しかし、あなた自身が
  その「たったひとり」ではあるが、
   その「絶対的な証言者」なのだ

「肉体の死とは何なのか?」
この質問の答えをあなたは必要としないのでは無いか?
                  ・・・少なくとも自分自身に関しては

ゴクリ、「それは確かなの?」

それはデカルトが言う様な
「吾思う、故に吾在り」なのか?
・・・否、「考え、思いつき、アイディア」は検索、コピーが可能だ

「きれいな花だなあ」と脳内で言語化する・・・
ところがそうマインドで呟いている時は、私達は花なんて見ては居ない

「こんな時はどう反応し、どんな形容詞を使うのか?」
ターミネーター殺人ロボットのように
状況を観察し、識別し、過去の日本語の〝用例〟から検索し、
適当な形容詞を反復して自分自身に言い聞かせているだけだ

用例「失せやがれ」を選択 from Katal Maneel on Vimeo.


本当に花を見て(体感して)いるなら、頭の中のおしゃべりは止まり、沈黙が広がる

わたしたちは花の実感が、自分自身を「刺し貫く」前に
言語化して、ありふれた体験として、さっさとアーカイブ化しているだけだ

【長文引用】

人が絶対に確信できる現実は
たったひとつしかない。
それは内面の真実だ。
人は内側に動いて行ける。
人が確信できるのは、
自分自身しかない。
他には何もない。
だが、
ひとたび自分が存在するという、
この確かさを射抜けば…。
いいかね、
夢の中にさえ、
自分はいる。
蝶にはなっているかも知れないが、
自分はいる。 


夢が存在するためにすら、
少なくとも自分が必要だ。
すべては夢かも知れないが、
自分はそうではない。
なぜなら、
自分がいなくては
夢もあり得ないからだ。
夢のためにすら、
意識が必要だ。


あらゆるものが夢だと
証明することはできる。
だが、
夢を見いる人を
夢だと
証明することはできない。
夢を見る者は、
実在でなければならないからだ。
さもなければ、
夢も存在できない。

確かなことはひとつしかない。
そして、
それは、
自分だ。


たったひとつの事だけは絶対に確かだ。
それは、
自分の内面という真実だ。
改心とは、
不確かな世界、
見かけの世界から、
その真実の世界に
向きを変えることだ。

ひとたび人が、
その内なる確かさを、
自分には根拠があることを知ったら、
ひとたび自分がいることを知ったら、
その確かさによって、
視界が変わる。
その質が変化する。
そうすれば外の世界を見ても、
別な世界が開示される。
その世界が神だ。

人がある確かな、
絶対に確かな実在に
根を下ろした時、
その人の眼差しは
それまでとは異なった質を持つ。
その時、
そこには信頼がある。
今や、
見ることができる。
すると、
全世界が変わる。

その時そこにあるのは、
そう見えるものではなく、
実在だ。
本当に真実であるものだ。
本当に真実であるものとは何か。
それは、
この目に見える形ではない。


形態は変わるが、
その形態を通して動くものは変わらない。


あなたは子供だった。
それからあなたは若者だった。
今やあなたは老人になった。
形態は絶えず変化している。
あらゆる瞬間に、
肉体は変化している。
だが、
その内面を覗けば、
あなたは同じままだ。

あなたは、
母親の子宮の中での
小さな細胞だった。
肉眼では見ることもできなかった。
それから小さな子供になった。
それから、
夢多き青年になった。
そうして、
心破れ、
落胆した一人の 失敗者、
一人の老人になった。
だが、
もし 内側を見たら、
なにもかも同じままだ。

意識は決して変わらない。
内側を覗き込めば人は驚く。
自分の年令が感じられない。
意識には年令がないからだ。
目を閉じれば、
自分が二十歳なのか、
四十歳なのか、
六十歳なのか分からない。
年齢は肉体に、
殻に属するものだからだ。
本質は年齢を持たない。

生まれたこともなければ、
死ぬこともない。
ひとたび、
この永遠不変の、
不動の絶対に中心が決まったら、
あなたの質は変わる。
そうすれば、
人は見ることができる。
人は鏡になっている。
そして、
その鏡に、
実在が映る。
だが、
まず自分が鏡に
ならなければならない。
今はあまりにも波立ち、
揺れ動き、
何ひとつ映し出すことができない。
あなたが歪んでいるのだ。
マインドは実在を歪める。
意識がそれを顕わす。

‘根源に帰れば、
意味を見出す。
 だが見かけを追えば、
 源を失う。’

見かけを追い続ければ、
源を見失うことになる。
見かけとは外側だからだ。


ある時は富を追い、
ある時は女を、
あるいは男を追い求める。
ある時は地位や権力を追い求める。
そうやって
見かけの世界を追い続ける。
そして、
その間ずっと、
自分自身を見逃している。
そのあいだはずっと、
夢の中に生きているのだ。

もし源を見失なったら、
人はすべてを見失なう。
外側の世界で多くのものを
手にするかも知れないが、
結局、
最後には、
自分が何ひとつ
達成していなかった事が
分かるだろう。
すべての意味を
担っているものを
見逃してしまったのだ。

臨終の床で、
あなたは大金持ちとして
死んでいくかも知れないが、
内面は、
貧しい 一人の乞食として
死ぬことになる。

死に際して、
あなたは
非常な権力者かも知れない、
一国の偉大な大統領、
あるいは首相かも知れない。
しかし内側深では、
自分が無力だということを
知っている。


死は、
その権力が
単なる見せかけに
過ぎなかったことを
証明する。


その権力は、
死を前にして
無力で、
役に立たない。
死を越えて行くものだけが力だ。
他のすべては無力だ。
人は束の間
それを信じたかも知れないが、
死が真実をもたらすことになる。
死がやって来ていることを、
いつも思い出しなさい。

そして、
死こそが判断基準だ。
何であれ、
死が無効にするものは、
無効にされる。
何であれ、
死が承認するものが
承認されるのだ。

何であれ
死を越えて行けるものこそが、
何であれ
死より強力なものこそが
実在なのだ。
実在は死なない。
非実在は千とひとつの死を死ぬ。

‘内なる光明の時、
見かけと、空を、
ともに越えて行くものがある。’

内なる光明が起こって初めて、
自分が内なる光に満たされて初めて…。
光はそこにある。
あなたが
それを外に投げ出しているのだ。
それは、
あなたの欲望とともに動く。
欲望こそが焦点だ。
光は動き続ける。
あまりにも
富に取り憑かれていたら、
全存在が
富に焦点をあわせる。
すると
金以外には何も見えなくなる。
たとえ人に会っても、
その相手は見えず、
金が見える。

相手が貧しければ、
あなたの思考には
どんな痕跡も残さない。
相手が金持ちだったら、
その時には跡が残る。
大金持ちだったら、
その人を覚え、
記憶が形成される。

あなたが権力を追求していて、
ヒットラーやスターリンや
毛沢東に会ったとしたら、
その時は、
人に会ってはいても、
それは二の次、
あなたはまず権力に出会っている。
ニクソンが大統領でなくなれば、
もうその相手が見分けられない。
ニクソンが自分の側を通り過ぎても、
それはもう人ではない。


人には何でも
自分の望むものが見える。
自分の欲望が、
自分に見えるのだ。


そしてあなたの光は
常にあなたの欲望に
焦点を合わせる。

この光が向きを変える時、
転向する時、
内側を向く時、
そこに明知がある。
その時、
人は光に満たされている。
明りのともった家になる、
その内側はもう暗くない。

‘内なる光明の時、
見かけと、
空を、
ともに越えて行くものがある。’
突如として、
人は見かけと空虚を越えて行く。
そうなれば、
何ひとつただの見かけではないし、
何ひとつ空虚ではない。
すべてが〈神性なるもの〉で
満たされている。
あらゆるものが
〈神性なるもの〉でいっぱいになり、
溢れている。
あらゆる木、
あらゆる川、
あらゆる海が、
〈神性〉で 溢れる。
その時、
神は至る所にいる。

それを真理と呼んでもいいし、
あるいは自分の好きな
どんな呼び方で呼んでもいい。
ただその実在は至る所にある。
自分が真実であれば、
世界は真実になる。

自分が
非真実の欲望の中に住んでいれば、
人は、
見せかけの世界を創り出す。
どんなものにせよ
自分がそれであるもの、
それが、
その人の世界だ。
だから、
人と同じだけの世界があるのだ。

なぜなら、
誰もが自分だけの世界に住んでおり、
自分だけの世界を
まわりに創り出しているからだ。
それはその人の投影、
その人の創作だ。

‘この空なる世界に現れる
見かけの変化を、
ただ無知なるが故に現実と呼ぶ。’

誰かを年寄りだと言う。
老いを現実と呼ぶのは、
実在の何たるかを知らないからだ。

それを知れば、
誰ひとり若くもなければ、
誰ひとり年老いてもいない。
誰ひとり子供でもない。
内側には年齢がない。
外側の形が変化するだけだ。


私の服が古いとする。
服が古いからと言って、
私を老人と言うだろうか。

私の服が新しいとする。
ニューブランドだ、
仕立て屋から
出来上がってきたばかりだ。
服ができたてだからと言って、
私を若いと言うだろうか。

肉体とは衣服に他ならない。
誰かを老人と呼び、
誰かを若者と呼び、
誰かを子供と呼ぶのは肉体のゆえ、
絶えず変化し続けるその形態のゆえだ。

知るに到った人は皆、
真実は不動のもの、
動くことのないもの、
動き得ないものだと言う。
衣服が変化し続けるのだ。

Osho - Nither This Nor That


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