首斬り朝_第01巻「鬼包丁哭くとき」

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諸行無常 しょぎょうむじょう 是生滅法 ぜしょうめっぽう
生滅滅已しょうめつめつい  寂滅為楽じゃくめついらく
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より引用

諸行無常

「現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、
 一瞬といえども存在は同一性を保持することができない」ことをいう。

この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。三法印、四法印のひとつ。
涅槃経 に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、
これを諸行無常偈(「げ」って読むようですね。^^)と呼ぶ。

雪山童子はこの中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。
これより雪山偈とも言われる。
「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。
             寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」

「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。
有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。

後半偈は還滅門。
生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。

   生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものである
                 と観るから苦が生じるのである。

この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。
しばしば弘法大師空海に帰せられてきた「いろは歌」は、
この偈を詠んだものであると言われている。

  いろはにほへどちりぬるを  諸行無常
  わがよたれぞつねならむ   是生滅法
  うゐのおくやまけふこえて  生滅滅己
  あさきゆめみじゑひもせず  寂滅為楽

「諸行無常偈(雪山偈)」
釈尊がこの世で悟りを開くにいたった過去世の因縁としての物語の中で、
一人の修行者が雪山(ヒマラヤ)でひたむきに修行していた。
その真摯な態度に感動した帝釈天(仏法の守護神)は、
悪鬼(羅刹)のすがたに身をかえて修行者の前にあらわれた。

そして「諸行無常なり、是れ生滅の法なり」と雪山偈の半分を唱えたのでした。
修行者はこの真理の二句を聞いて大いに驚き歓喜し、
あたりを見回すがそれらしい人影はない。

そこに立っているのはおそろしい姿の羅刹であった。
修行者はおそるおそる鬼に話しかけた。
「今の言葉はお前がとなえたのか」というと「そうだ」という。
修行者は「今の二句は真理を説いてはいるが、
それではどう生きたらいいかという後の二句が説かれていない。
知っているなら是非とも続きを聞かせて欲しい」。
鬼は答えた。
「もちろん続きも知っているが、腹がへって続きを唱えることができん」
というのであった。

修行者は
「それではお前の食べ物を私が探してこよう。一体何が食べたいのだ」と聞くと、
「人間の血と肉を食べたい」と言う。
そこで修行者は、真理を求めるために命を捨てる覚悟をして言った。

「それでは、私の身体をあげるから続きを聞かせてもらいたい」ということになり、
鬼は「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽となす」の言葉があたりにこだましました。
修行者はこれを聞いて驚喜し、後世の人の為に四句を岩に刻み約束通り谷底に身を投じた。
その瞬間たちまち鬼は帝釈天の姿になって、
やさしく修行者のからだを受けとめ礼拝した--。

この修行者というのが前世で修行している時の釈尊であった、というのです。
 
この四句を諸行無常偈といい、
葬儀幡として当寺で行う葬儀には葬儀会館にても必ずかかげていますが、
都会の葬儀ではほとんど見られないと言う現状はまことに残念に思うのです。

         葬儀幡は四本幡(四幡)ともいい、旗ではなく幡です。
         幡は仏菩薩を称え、教えを表示する役目を持っています。

この無常偈は、修行中の釈尊を雪山童子(せっさんどうじ)といいましたので、
雪山偈ともいわれます。

  諸行無常(しょぎょうむじょう)---すべての存在は移り変わる
  是生滅法(ぜしょうめっぽう)--- 是がこの生滅する世界の法である
  生滅滅已(しょうめつめつい)--- 生滅へのとらわれを滅し尽くして
  寂滅為楽(じゃくめついらく)--- 寂滅をもって楽と為す 

これを和訳したものが「いろは歌」だといわれています。 
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐの・・・ という、
ひらがなを、重ね字なく並べて読みこんだ四十七字の歌を「いろは歌」といいます。
昔は手習いの手本やカルタ遊びの読み札として用いられました。
しかし、戦後の国語教育では、「ゐ」や「ゑ」という字が使われなくなり
教えることもありませんから、この歌を知る人も少なくなりました。 

ところで、このいろは歌を「仮名手本忠臣蔵」とも言うのです。
なぜ忠臣蔵なのかというと、最初の紙に「いろはにほへと」と書く。
次に「ちりぬるをわか」三枚目に「よたれぞつねな」となっている。
この仮名手本の一番下の字をつないでいくと、「とかなくてしす」。
つまり、「咎なくて死す」であって、
赤穂四十七士は〝主君の仇討ちをした忠義の士となる〟というのです。

主君の仇討ちという忠義の士を幕府は切腹の刑に処したという
権力者への痛烈な批判が込められていますが、
どこで切るか?によって意味がまったく違ってしまう見本のようなものです。

このいろは歌は『諸行無常偈』和訳したもので、
弘法大師の作とも伝えられますが、はっきりしたことはわかっていません。
その真偽はともかく、甚深なる意味が含まれています。・・・

・「色は匂えど散りぬるを」
  花は爛漫と咲き乱れていてもやがて散ってしまうように、
  人にも寿命があり、すべての存在はうつりかわる。
  我が世と青春と肉体を謳歌していても、
  月日のたつのは実に早いものであるという「諸行無常」を示します。
 
・「我が世誰ぞ常ならむ」
  この世に存在するものは生滅する法(真理)です。
  釈尊は
  「一切のものは無常である。諸法は無我である。」
  「故にすべての存在しているものには永遠不滅なるものなどは内在しない」
  と示されています。
 
・「有為の奥山今日越えて」-- 有為とはインド語でサンスクリタ(作られたもの)
                          英語で言うと the created 

  しかし、キリスト教のように神によって創られたものということではなく、
  仏教では縁起思想ですから、原因と条件が合するところに万物は存在する。
  因縁は常に加わりますから、それに応じて常に相(すがた)を変えています。
  すなわち「無常」です。
  この「無常」なるものへのとらわれを滅して
  因縁の道理を知る、真実の道理に目覚めることです。

  有為とは為す有りとも読めます。
  人間のはからいとは「人生とはどうしたって有為なんだ」というのでしょうが、
  無為というのは為す無しということです。
    そのことに一所懸命には勤めるが、
    こうやったらこうなるだろうというアテを作らない ・・こと。
  アテを作るとみんな、必ず手前みそになってしまうのです。
 
・「浅き夢見じ酔いもせず」 寂滅をもって楽と為す-- 
  有為の奥山を越えて見たならば
  「浅い夢のようなもの」であり
  「酔っぱらっていた」ようなものである。
  「寂滅」とはやすらぎということです。

  我が滅しられ、煩悩の火が吹き消えた状態で、
  やすらぎ、悟りの境地をいいます。
  一切のものごとへのこだわりや、とらわれの心がなくなった状態です。