こころ自体は無限であると思っていた
有限なのはこの物質の世界、肉体の能力なのだと思っていた

だから塵の様に積もり続ける耐えがたい「過去の重み」「疲労感」は
「肉体を持って生まれてきたからなのだ」という懲罰的に、
この肉体の生活を見なしていた・・・ずっと

そしてその観念こそが、私を「悟り」への関心へとずっと急き立ててきた

しかし「人生への疲労感」というものは、
物理的、肉体的な要因で蓄積し続けているのではない 

なぜならこの物質世界は回転運動が主軸になっていて
様々な複雑な種類の〝周期=サイクル〟が支配しているからだ
 誰だって「疲れてヘトヘト」な時もあれば「ハツラツとしている」時もあり
   人生に「疲労が蓄積する一方」などと言うことはない
・・・・苦労もあるが、「くつろぎのひととき」が必ずある

昼があれば、夜もある、

ナルホド確かに身体を使えば、身体は疲れるだろう
でもそもそも、そんな「肉体の疲労」が自分の限界を物語っていたのではなかった!

   「疲労感」とは「内的な問題」だったのだ!
    「疲労感」とは「義務感」から生じていた!

物理的、肉体的なサイクルそのものは、
決して「牢獄」なのでも「カルマ」なのでもなく
「生命の躍動原理」「回復」「リバランシング」の原理だったのだ・・・

その、「知っているはずのこと」に気が付かなかったが故に
        わたしはずいぶんと遠回りしてしまった様だ

夜眠り、朝が来れば、肉体はリフレッシュされ、そして世界も新鮮だ
にもかかわらず、私達は寝床で目覚めると「またか」と呟いてしまう

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・・・ことは「疲労感」だけに限らない
   あらゆる「こころのリミット~〝限界〟」「心因的なハードル」を
   私は物理的、肉体的な根拠に求めすぎていたのだ・・・

   確かにジュースは飲めば減る、体力は使えば疲れる
   金を払わなければ買い物は出来ない・・・
   そんなことは小学生にとってもありきたりの事実であるが故
   なるほど誰もが納得する説明だった、そうして自分自身も納得してきた
   
   暴力を振るう夫、父親・・・あなたの体中がアザだらけ
   であればドメスティック・バイオレンスを受けている証拠は充分だ
   物理的な根拠の在るものは、容易く立証できる
   そしてその責任を凶暴な性格の夫や父親に対して追求できるだろう

   しかし本当にそれだけが「事案の全貌」なのだろうか? ・・・いや違う!

「疲労感」だけにかぎらず、
自分の中のありとあらゆる限界性、恐怖、恐れ・・・
それらの原因を説明する為の
ありとあらゆる外部的要因を見つけるのは決して難しくは無いだろうし、
それは他人に対し、社会に対しては実に説得力のあるリアリティーがある

 生涯、その「やむを得ない」現実、限界性に支配され続けても
       誰も同情こそしても、文句は言わないかも知れない

しかしそれらの現状に対して、
私たちは本当に「純粋に支配されているだけ」なのか?

 ひょっとしたら、
それらの惨状を引き寄せて、
自己弁明のタネにして自分に引きこもっているだけなのでは無いか?

だとしたら、第一の加害者は自分自身だと言うことになり
「加害者の〝役目〟をさせられている者達」というのも、
ある意味では、「実は被害者」なのではないだろうか?

自分自身を様々な種類の限界性に押しとどめるために
「いじめっこ」を自分自身が必要として、無意識に引き寄せているとしたら?

スピリチュアルではこころの無限のポテンシャルを証明するために
さまざまな超人的な現象を素晴らしい奇跡とあがめる風潮が、今だにあるが
むしろそれは「人間のこころの有限性、限界性」を表現しているのでは無いだろうか?

「人々に対してスプーン曲げやら透視やら、スペシャルな現象を披露する・・・」
それ自体がまさしく「人間の心理の幼稚さ、有限性、限界性」なのではないか?


わたしたちは日々、飲み、喰い、眠り、そしてクソをする・・・
肉体には確かに様々な制約があるが、それは「内的な制約」とは無関係だ

ところがそれらの肉体的な制約を超えて、空中浮遊したり、水中クンバカしたり・・・
・・・たとえそんな事が、人並み外れた芸当が出来たとして
   それが「心の制約」と何の関係があるのだろう?

 そんな奇術に心が奪われてしまった人は
 余計に「こころが縛られてしまう」のではないだろうか?

「こころ〝が〟・・・」制約を受けてきた、抑圧されてきた、・・・のでは無く
「こころ〝こそが〟・・・」制約そのものなのでは無いだろうか?

「人並みから離れた」超人であったり、天才であろうとすることが
「人間の限界性の突端なのだ」と思い込んでいる人々があまりに多い様に思う

「心の限界」を
「肉体的に突破したい」人達が多すぎる

 何も喰わない「不食」が、「食欲」の限界突破なのか?
逆に何でも食べ続ける「大食いチャンピオン」が 、「食欲」の限界突破なのか?
                   ・・・・わたしはそうは思えない

私達は、今日も食べ、今日も働き、今日も眠るだろう・・・
でもそこには何の問題も、限界性も無い

肉体の有限性の中にこそ、無限性がある
そして心の無限な欲望の中にこそ、有限性がある それが私達の牢獄だ