スピリチュアルな探究者とは

理想からではなく、

スピリチュアルな不満足感または体験から

求める人です。

バガヴァン

理想とか信念体系というのは
「~べき」「~ねば」「~の為」ということ・・・

  「べき」とは「壁(かべ)」の音読みでもあり
   壁とはすなわち「限定」「限界」のことだ

  「ねば」とは英語のNEVER「禁止」のこと

  そして「為」とは「溜め」だ
  「人の為」とかいて「偽(うそ)」となる

 「スピリチュアルな欲求不満」とは
  この
   「壁(かべ)、偽(うそ)への欲求不満」
   「NEVER~禁止への欲求不満」
   「溜め込むことへの欲求不満」 ・・・というわけだ

なぜ「マインドを否定も肯定もせず見つめなさい」とOSHOやバガヴァンはいうのか?

・・・つまりマインドとは「生存プログラム」のことであり
このプログラムへの盲従とは「ロボットの様に生きる」ことだからだ

たとえば私達はお金に執着しやすい
  「お金は命の次に大切なモノ」 ・・・と思いがちだ  

なぜなら以前も書いた様に、「お金」とは「生命の数値化」だからだ・・・・

お金はあくまでも手段、道具に過ぎないはずだけれど
実際の処、私も含め多くの人々が多くの場合、
お金のために何かの労働に従属しなければいけない、ロボットにならなければいけない
というのが現状だ

だから、「効率よく稼ぐ」マインドの機能に、自分自身が強く自己同一化せざるを得ない
・・・つまり、「率先してロボット化せざるを得ない」という社会人としての宿命を背負っている

これは「スピリチュアルな欲求不満」の一つの大きな要因にもなっている

そしてこれは
お金を求めつつも、「お金は汚い、お金が好きになれない」という心理にも直結する

だから、わたしたちがドップリとマインドとの自己同一化に浸りながらも
「マインドの束縛から逃げ出したい」という憧れを抱くのも自然なことだ

しかし「お金」にも「マインド」にも何の罪もない
私達はあるいは「無為」や「ノーマインド」「静寂」に憧れるが
私達が植物に生まれなかったことは幸福なことなのだ

「スピリチュアルな欲求不満」によって、お金にせよ、マインドにせよ、
それらを敵視したり邪魔者扱いにしたりするのはおかとちがいだ

それらは私達の生活に、ある程度の選択的自由を与えてくれているだけだ
でも逆にそれらに自己同一化してしまうのも愚かなことだ、・・・ロボットになりきってしまう
自分自身を「効率的な道具化」しきってしまえば、
それは「便利ではある」が、それは同時に「生命としての本性の喪失」でもある

続編予定中