私はこのブログで何度も「最初の動機がすべて」と書いてきた
つまり「出発点」そのものの中に「終点がどこか?」が語られているという意味だ

わたし自身がなぜ、「悟り」というものに興味を持ったのかと言えば
「人生への疲労感」と「孤独に死ぬ事への恐怖感」からだった

・・・いまこうして自分自身の〝動機〟を眺めてみれば
  この二つの動機は相矛盾している

気が遠くなるほど長く続く輪廻転生への疲労感から逃れたいならば
〝死〟というのは解放のハズである・・・なのになぜ私は死を恐れたのだろう?

しかしこの相矛盾する二つの〝動機〟には共通点もある

それは
「自分はまだ行くべきところに行ってない、辿り着くべき処に辿り着いていない」
という感覚だ・・・そうみれば、この二つの〝動機〟は矛盾していない

子供の頃から、私は酷く疲れやすい体質だった
それほどの肥満児でも無かったのに、小学生の時に糖尿病の検査を受けたほどだった

でも今思えば、その疲労感は肉体的な原因ではなかったのかも知れない
なぜなら楽しいスポーツやその他の理由で肉体的に疲労しても
そこにはある種の心地良い爽快感がある
・・・きっとそれは誰もが経験したことがあると思う

私が引きずり続けてきた「人生への疲労感」とは
奴隷のように強制労働を強いられたような感覚だ
だからこの「疲労感」は、「義務感」に大きく起因しているように思う

わたしは「やむを得ず生き続けてきた」という義務感がまだ払拭できていない
だから自分自身をいまだに追い立てながら、叱責しながら生きている・・・

後天的家系を示す天体は、わたしのホロスコープでは「義務を果たすラビ」という
天秤座の19度にテナントしている・・・なんと言い得て妙なのだろうか!?

この「義務感からの解放」こそがエンライトメントへの強烈な関心へと私を駆り立ててきた
なのでこれがわたしにとっての「悟った時の達成(ご褒美)」として私を縛り付けてきた
それは「死への恐怖」と「死への渇望」という矛盾する欲望に自分を追い立ててきた

しかし、本当に私の全欲求は「自分自身の完全消滅」なのだろうか?
単に「風呂に入るのが面倒くさい」だけなのではないだろうか?

思えば私は、超、ウルトラ、面倒くさがり屋である
それは自己受容が進行すると同時に、当然の如く悪化してきた
人間関係を構築することも、その「面倒臭い項目」の大きな要素である
では自分自身の破壊、人間関係の破壊が私の最終目的か?それが「悟り」か?
と自問自答してみると、それはどう考えても違う気がする

 ・・・ところが実際はわたしはいままでそういう人生を選択し、遮二無二歩んできていた

そんなことよりも、
本当に「疲れない人生」とは可能なのだろうか?・・・なぜ問わなかったのだろう?

私は今まで疲労感から死に物狂いで逃避していたあまり、
そんなシンプルな問いさえ思いつかなかったのだ!! ・・・なんと馬鹿なのだろうか?

過去の自分の愚かさを弁解するならば、
「疲れない人生」だなんて、絶対にあり得ない! っとどこかで麻痺して考えていたのだ

今の私にはハッキリ見える、
自分自身がまるで奴隷のように義務感で自らを引きずっていままで生きてきたのを・・・

「死にたくなるほど」疲労感に苛まされるのは、
   今、振り返ればあまりにも当然の事だった

 この自らのストーリーを目撃したことで、
  もう私は「風呂に入ったことを後悔」しなくなるだろう

私にとって今までは
「自分自身の完全破壊」がエンライトメントのイメージだった
なぜなら「光明」という言葉に誘われた私の動機、それ自体が
「自意識という存在の重みに死にたいほどウンザリ」していたからだった

 わたしは、「間違った動機」から「悟り」を求めていた・・・
  ・・・しかし、誰もが「間違った動機」から求道を開始するものなのだ

  「悟り」とはなにか?「瞑想」とは何か?
   その正確な全体像をはじめから持っていたならその人はすでに悟っている。
         と、クリシュナムルティーも言っていたように記憶している

私達は必ず何かに取り憑かれていて、追い立てられている
そして寺の山門を叩くのだ

そしてわたしたちは
自分勝手な、強迫観念に彩られた「悟り」のイメージを持って
間違った問いかけを続けている
たぶん正確な、的確な問いを発する様になった時、
もう回答を得るのは難しくは無いのだろう

私の場合
「なぜ疲れるのか?」「疲れない人生はあり得るのか?」
・・・「悟り」を求める前にまずはそれを問うべきだったのだ

そして自らユダヤのラビのように、自分自身を律法でガンジガラメにしていたのだ
その自ら科してきた〝義務感〟・・・それこそが疲労の原因だった

私はそれがあまりにも「肉体的、物理的な疲労なのだ」と思い込んでいたのだ!


人生の一日の中でも、わたしたちはその都度、ムードに支配される
もう死にたくなったり、全てを投げ出したいぐらい面倒臭かったり、腹が立ったり
あるいは憂鬱だったり、なぜかハッピーだったり、楽しかったり・・・

その時々はシリアスに一喜一憂するが、
それらは過ぎてしまえば笑ってしまうぐらいムードに囚われていただけだった
というオチだ

これが、
一日の短い周期の繰り返しならば、「笑い事」「いつものこと」なのだけれど
これがより長い周期だと、それが「馬鹿げた繰り返しだ」となかなか見抜けない
なぜなら
私達はどうしても「終始一貫したがる」「論理的に説明意味付けしたがる」からだ
一年だとか、十年だとか、より長い周期の谷底は、より深くもなる
・・・するとなかなか「壮大なストーリー」に囚われてしまって、笑い飛ばせない
・・・そのストーリーの中で盲目的な義務感も背負ってしまうのだ
・・・そしてヘトヘトに疲れ果ててしまう!

でも短い人生の周期と、基本構造は同じ

「風呂に入るのが面倒臭くて」自殺する人は早々いないだろう
でも「その時」は「それが全て」に見えてしまうものなのだ、誰でも・・・・

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