描き方を教えるのは簡単だ。
でも、大事なのは自分で気づくことだ。

教えられることに慣れた人間は、
自分だけの力で同じことができなくなっていく。
気づく目を持つには、対象物と徹底的に向き合う時間が必要なんだ

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12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。
「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。


 「デッサンは完成させようと思うな。思った瞬間に、雑になる」

 「形は一カ所だけ直しても意味がないんです。
  何かがおかしいなと思うときは、たいてい全体が どこか違っています。
      違っている場所をすべて、少しづつ修正する。それが基本です」

なんか自分 いままでの人生、常に、答えだけを欲しがっていたのかも。

 教えてもらわなくちゃわかんないじゃん! とぶーたれた自分って、
まさにデッサンで 「やっちゃいけないこと」をしてたんだなーって思う。

一年前見かけたこの記事を、改めて読み直してみて感慨深かった
             これはまさしく瞑想の極意そのものに思える

私達は、ノウハウを知識としてコレクションするためにここにいるわけではない
それは、社会生活や他人のためにだけ必要なことであり
自分自身のために、ではない・・・

しかし、長年の「社会のために」生きる習慣によって
私達は、「そんなこと、知っているよ!」という
インスタントな知識の結論の中に、ついつい逃げ込んでしまう

手際の良い料理番組のように
「・・・それはすでにこちらにご用意してあります」

過去の出来合の結論によって
すべてにケリをつけてしまった瞬間、フタをしてしまった瞬間に、
わたしたちは目の前の現実に対して開きメクラになってしまっている・・・

見るならば、見る、・・・穴があく程、よく見てみる
訊くならば、聞く、・・・よく傾聴してみる

 ・・・そこで私達の意識は、知識を超え、純然たる鏡になる
              無我性、ノーマインドは、そこに現れる


OSHO_真実を目撃することは出来ても、それについて... 投稿者 maneel-katal

「鏡になろう」としても、人間は鏡にはなれない、なれるわけがない
人間とは、過去の集積の武装によって生き延びた種族だからだ・・・
しかし、
「制限時間内に完成させよう」という色めきたった気持ちを完全に忘れている時
わたしたちは過去の知識も、マインドも、観察者も、どこかに置き去りにして
純粋な行為の中に没入している、もう観察者と、被観測物と言った分離は、そこにない

その「忘我のひととき」が私達に何を示唆しているのか?
それは、「自意識とは、過去の知識の集積から類推された思い込み」だということだ
私達は「そんなこと、知っているよ」というカタマリとして、生きてきたと言うことだ

 その〝カタマリ〟としての思い込み~精神構造が、
     「孤独、焦り、退屈」という心理の発生原因なのだ

「もう10時間も、無為に過ごしている」と時計をチラチラ気にするごとに
わたしたちは耐えがたい程の「孤独、焦り、退屈」を感じてしまう
そしてその原因は「無為=無駄な時間だから」なのだと、ついつい考えてしまう・・・

ところが原因は「無為」ではなかったのだ!
       無為な時間から何とか逃げだし、
       「何か有意義な時間を過ごしたい」という先走り、逃避、弁明こそが
       「孤独、焦り、退屈」という心理的な恐怖の原因、そのものなのだ

この心理的な恐怖を見破った時、
わたしたちは無為の中に無理なく没入し、そして行為者、征服者の消えた・・・

           ・・・「無為という状態」、

つまり〝無我〟そのものを新しいアイデンティティーとして生き始める

「人に教わったこと」は、私達はノートに書き込んで腐らせてしまう
「自分自身で気付くこと」とは、「自分の人生を生き始める」ことだといえる