OSHO_ ハッピーに今を生きる人々を戦争に引きずっていくことは出来ない(日英字幕... door maneel-katal

もし、あなたが歓びで恍惚のなかにいたならば
あなたは何をして、どこに行くだろうか?

「いや、今オレ、実際そうじゃねぇ~し!」と
あなたは口をとがらせるかも知れない

では一体どんな感覚を前提で、
あなたは物事を始めようとしているのだろう? 

・・・不幸?、不満?、惨めさ?、失望?、欠落感?
・・・だからあなたは何かを画策し、反省したり、改善しようとしているのだろうか?

ではそういった「不幸、不満、惨めさ、失望、欠落感・・・」
そこを前提にスタートして、あなたは一体どこに行こうとしているのだろうか?
そこを前提にスタートして、あなたは一体どこに到着出来るのだろうか?

古今東西の誰もが
「不幸」「欠落」や「不自由」「不平等」「憎しみ」「間違い」を〝改善〟し
 「幸福」「充足」「自由」「平等 」「正しさ」に辿り着こうともがき苦しんできた

〝改善〟は確かに便利さを私達にもたらしてはくれた
          システムとは「改善可能」だからだ

で、本当にシステムが私達を「幸福にしてくれた」だろうか?

  「システムの改善が、わたしたちを幸福にしてくれる」
  ・・・そのコンセプトが現代の物質文明社会を築き上げた 

 だから私達はいまだにこのマトリックスを
 より緻密で細密で正確なものにしようといまでも努力している

 それゆえにシンギュラリティーを恐れつつも、その歩みを止められない
 なぜなら、いままでの歩みが「間違っている」とどうしても思えないからだ
 「欠陥はいずれ改善される・・・」と信じている、プログラムのバグを取る様に・・・

・・・こうして人間は、いつかは人間自身のバグもすべて除去できると信じている
   たとえば遺伝子操作による、デザイナーズ・チャイルドを実現するように・・・

そしてこの期待感そのものが、
「自分達は欠陥品だ」という再確認にも連動している
それは「自分達は決して幸福には届かない存在だ」という無意識を蓄積させている
それは「いつかどこかで」実現するのだ、と・・・「何世代か先の未来には!」っと

そしてその「何世代か後の」予測が、その時どうなっているのか?
私もあなたも、たぶん確認できないだろう

しかしそれが、「どうなっていれば」〝正しい〟のか?
          一体何が〝正しい〟未来なのか?

・・・いったいその判定を誰がどんな権威の元に下すというのだろうか?

ただしここで、ひとつだけ明確な事実がある
「いまここ」が不完全さからスタートしているならば
「いつかどこか」がどの様になっていようが、
「いまここ」のわたしたちは、「不完全なままだ」ということだ

たぶん、あなたは反論するだろう
 「いや、おまえは何を言っている?」
 「この〝いまここ〟が〝いつかどこか〟に改善され、入れ替わるのさ!」っと・・・

「それが〝改善〟というものじゃないか?」っとあなたは主張するだろう
「世の中も、わたしたちも、『不完全から完全に』向かっているのさ」というわけだ

その精度は、90%になり、99%になり、やがて、99.9%になり・・・
そしていつか「神の数式」が発見され、全てが改善され尽くし
いつしか100%の未来が来る ・・・「それがアセンションというものだ」、っと

・・・アセンションという言葉を信じている、
 いわゆる「スピリチュアルな人達」でさえも、そう信じている人達が大半だろう

だからかれらは、
  その瞬間を「今か?今か?」と待ち焦がれている
   「いつかどこか」が「いまここ」に到来する瞬間を・・・

確かに99度のお湯は、加熱し続ければやがて100度に達して沸騰し、気化し始める
確かにシステムには、「一応の完成」と呼べる地点がある

だからわたしたち人間はその水蒸気をみて、システムと同じように、
「人間自身もやがて〝沸点〟を向かえるのだ」と信じて疑わないのは無理もない
・・・わたしたちは、いろいろなシステムが完成するごとに歓喜してきたでは無いか?

    この世界とは「不完全から完全へと向かっている」
    それが、「現代客観科学」という名前の新しい神、新しい宗教だ

しかし、
たとえ人類が宇宙時代を迎えたとしても
たとえ宇宙という「桁違いの広大なフロンティア」に飛び立とうとしていても
それはむしろ「改善すべき点」が莫大に増加するだけのことだろう・・・
ひとつの完成、ひとつの達成は、桁違いに多くの「不完全さ」を生み出すのだ

もちろん、
もっともっと選択肢は増える、もっともっと便利にはなるだろう
もっともっとファンタスティックな体験が私達を待っているだろう

・・・しかし、改善は、決して終わらない

それは「素晴らしい」ことなのかもしれないが本質的なジレンマは残り続ける
それは、「不完全な自分自身」が取り残されると言うことだ

「改善」に延々とエキサイトメントし続けるのもいいだろう
でも本当にそれは「いつかどこか」が「いまここ」に到来したことにはならない
・・・それは「オレオレ詐欺」だった

「辿り着く」ことなど、実際には永遠にないという証明だけが延々とつづく
たとえどれだけ「偉大なシステム」が完成しても、「人々の欠落感」は取り残される

・・・「次こそは」「次こそは」とはぐらかされながら

こうしてスティーブジョブスは
アイフォンを世に生み出し、IT革命の帝王でありながらも失意の内に死んで行った

かれは遺言に、この〝次こそは〟というのが永遠に来ないことを告発した
それは世界中に公布されたが、その痛恨の真意は少数にしか届かなかっただろう
   なぜなら、世界はまだまだ「改善の熱狂」という夢に取り憑かれているからだ

実際にはこの「改善の熱狂」とは「人間性の不完全さの爆発的な拡大」なのだ
だから依然人類は存亡の危機に立たされたままだ

いわゆる「スピリチュアルな人々」でさえ、
 いまだこの「人類的な宗教」の信者が殆どなのだ
・・・自分自身の「いまここの幸福」を後回しにした「改善」の囚人たちなのだ

「幸福の科学」も、NRジャパンの「観術」もおなじだ
 「科学的な、合理的な、ある種の手法」が
  「私達を幸福に〝してくれる〟」と思い込んでいる点で、おなじだ

あらゆる「手法」、あらゆる「科学」「哲学」そのものが「何かを掴もうとする腕」で、
それは一時的には「略奪、獲得による瞬間的な満足感、達成感」は与えてくれるが
それが麻薬的、優越感的な、より多くの欠乏感、不満、飢餓感を発生させる

・・・これこそが、人間の本質的な「不幸」なのであって「幸福」ではない

      「もっともっと」が誘導し、もたらすのは最終的には破滅だ

最初の質問に戻ろう・・・
もし、あなたが歓びで恍惚のなかにいたならば
あなたは何をして、どこに行くだろうか?

その時から、あなたは「アートマン」として生きるだろう

「足りることを知る」というのは「震度ゼロの幸福」であり
これは最大の「科学ではなく芸術(アート)」だ

私なりに「アート」を定義させてもらうなら
絵を描いたりだとか、その手法だとか、その絵が幾らで売れただとかという
そういう行為や結果のことなのではない

「アート」とはいまここを見つけたエクスタシーのこと、恍惚感のことだ
そしてその満ち足りた充足感こそが、「平和」という言葉の本質をも表現している

アートとは永遠性であり、「それ独自で完結している」世界だ
だからアートとは「生」であり、「死」でもある
「いまここ」に生きており「いつかどこか」への腕の延長=野心に対して死んでいる

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