一年前の記事をベースに書き直しました

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OSHO:罪悪感を、落としなさい!

目の下に「非ず」と書いて「罪」と書く

「ちゃんと見ていない」つまり「こころ〝ここ〟にあらず」
それが罪だ、というわけだ

この場合の「こころ」とは、マインドではなく「意識」を意味している

GLA:高橋信次や、その後継者を名乗る「幸福の科学」などでは
「反省」ということを強調する、つまりある種の道徳律と照らし合わせて、その
善し悪しを判断せよ、という ・・・つまり「思考:マインド宗教」だ

「意識的であれ」と言う場合、
「良いも悪いも〝考える〟必要は無い」「ひたすら注意深く見つめてみなさい」という

「思考:マインド宗教」は、他人に説明しやすい
なぜなら思考プロセスというのは〝説明〟に他ならない、
そして結果としての〝善し悪し〟は社会的にもコンセンサスを得やすい
フェイスブックで「いいね」をさぞかしいっぱい貰えることだろう・・・

でも、それはいまここで起きていること、そのものの「直視」ではない

OSHOは「肉食は良くない」とは言わない
    「充分意識的にゆっくりと味わって食事しているならば、
     『肉を食う』などというのは到底不可能なはずだ」という

これは、「憎しみ」「怒り」「嫉妬」「罪悪感」・・・すべてに言える

覚醒が足りないが故に、
人には 〝議論〟〝試行錯誤〟という〝代替品〟が必要になる
       「他人の称賛や理解」という支えが欲しくなる

なぜ「僕って魅力的でしょ?」と人に訊くのだろう?
なぜ「私もう死にたい」と人に訴えるのだろう?

・・・別に、そうしてはいけない、と指摘しているのではない
   その様にわたしが〝噛みついている〟様に見えるのは
   その人自身が「苦しい」からだ・・・「他人の視線を気にしすぎている」証拠だ

わたしが「なぜ人に訊く?」「なぜ人に訴える?」と尋ねるのは
「あなたそれ、むしろ苦しくないですか?」「自分で自分の首を絞めていませんか?」と
気にして、お節介に(あるいはからかって)言っているだけだ


わたしたち人間というのは「意識的である」という第一歩を踏み出してしまった種族だ
ひとたび「自分とは何か?」と気にし始めた時から、
様々な「他人の視線」「罪悪感」が、どっと私達一人一人に殺到する・・・

わたしたちは「自分」を意識し始めてしまった!
わたしたちは股間をイチジクの葉っぱで隠し始めてしまった、「はじらい」が生まれた
そして自然~エデンの園からの一歩を踏み出してしまった
そこから失楽園が始まったのだ

「神が私達を追放した」のではなく、「私達が神から逃げ出した」とも言える
自意識を持たなければ、なぜ神から逃げ出す必要があっただろう?
はたして神が天真爛漫な「カンナガラの生き物たち」を楽園から追放しただろうか?
わたしたちは「自分から出て行った」のだ

しかし「神が私達を追放した」という視点も、あり得なくはない
なぜなら私達人間がここまで進化していった過程も、
ある意味「神的なオートマティック」だったからだ

いずれにせよ、もう、無邪気に責任転嫁すべき「神」はもうどこにも居ない

ニーチェの言う様に「もう死んだ」からなのか?
OSHOが言う様に「初めから生まれても居なかった」のか?
 は、さておき、だ

「神」とは、
辛い人生の救世主、自意識の耐えがたい重みの責任転嫁先として、
文明発祥の冒頭から、先人達が考え出した「仮説」だった

それは未だに証明されたとは言えない

「私達はみな神だ、お金でも、権力でも、何でも好きなだけ無限に得られる!」
「決して、不可能と言うな!」・・・いまだにそう叫ぶ
成功哲学とチャンポンのスピリチュアル・ティーチャーに気をつけるべきだ
その証明に、かれらはたった1億円ぽっちのお小遣いさえ私達に配れないケチんぼだ

彼らは依然「全知全能の神」という仮説を自分自身さえ実現していないくせに
未だに性懲りもなく諦められないどころか、それを他人にまで吹聴しているペテン師だ

わたしたちはほんのしばらくの間、息を止めることは出来ても、
次の瞬間には呼吸が必要だし、食べ物が必要だ、それが自然なことであって
水中クンバカだの、空中浮遊だのが出来る様になる必要など無いし
そういうことが「超越だ」という、オウムの様な連中に騙されるべきではない

肉体的、物理的に、経済的、社会的に「超越」を宣伝する連中は未だに居るが
もうそろそろ、こういう手合いから人々は卒業してもいい頃じゃないだろうか?

「超人」とは内面的な問題だ
それは「鋼鉄の男~スーパーマン」になる事ではなく
「自我、自意識が充分成熟し、宇宙に溶け去った〝無(ム)〟の人~仏」のことだ

「神」とは、
自分の内面が空虚であることから目を背け、忘れ去るために「スーパーマン」に憧れる
私達の心理的幼稚さ、現実逃避の投影だ

「超越願望」とは、当たり前の自分自身を抱きしめるところから始まる
「罪悪感」は、当たり前の自分自身の直視を拒絶しているところから起きる


バシャール「究極の、無限の自己信頼」 投稿者 maneel-katal