自分とは何か?それはどんな土台、いかなる素材(マテリアル)なのか?
そしてそれは(他人から見て)如何なる価値を持っているのか?

・・・実に厄介な問いで、またもっとも根本的な問いで、
  しかし見方によっては最もバカバカしい問いかも知れない

  ジョセッペ爺さんが、まだ人間になっていない木偶人形のピノキオに
  上記の様な問いを必死に問うていたなら
  ジョセッペ爺さんは精神病院行きだろう

クリシュナムルティーはこう答えた
「私は何者でもない、でもそれを問うているあなたたちは誰かのコピーじゃないですか?」

そしてカルキ・バガヴァンはこう答えている
「その問い、そのものがあなたです!」

クリシュナムルティーは
私達が「正解ではないものの反芻している」ことを示唆することで回答している

でもバガヴァンの回答は
「それそのもの」をズバリ示唆していると思う


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「死にたい」と相談された時にしてはいけないこと


「死にたい」という気持ちを他人に表現している間は、まだ助かる見込みはあると思う
まだ、外に希望の光や慰めを期待しているからだ (※ 馬韓にして言っているのではない)

ただし、自殺願望の奥底にはこの「根源的な問い~私とは何?」が渦巻いている以上
〝他人〟の中に根本的な回答は無い ・・・それゆえに「根源的な問い」なのだ

〝他人〟は
それなりの慰めや考え方、哲学、気分転換、発想の転換を提案はしてくれるだろう
でもそれらはすべて「問いに対する答え」であって、これらは堂々巡りをする

〝他人〟に尋ねてもいい、すがって泣いてもいい
でも、根本的に問うならば、妥協することなく自分自身を問い詰めるべきなのだ
そうでないと以下の様な、過去からずっと続いた回答にねじ伏せられてしまうだろう

地球少女アルジュナ  第11章 「かえらざる日」の中にこんなセリフがある

 「この料理が今日の形になるまでに、
  何十、何百という名も無く消えていった料理人達の
  努力が込められている、人の営みとはそういうものだ・・・
  言ってしまえば、この味ひとつの方が人の死よりも〝重い〟のかも知れない」

! 名作・(Anime) 地球少女アルジュナ 第11章 「かえらざる日... door maneel-katal

 「死にたい」と人にこぼしている人にこんなセリフを聞かせてしまったら
  一体どうなることやら?

人類は今まで「次の世代に〝改良し〟〝発展させ〟〝伝える〟」ことに命を捧げてきた
しかしだとしたら一体全体、
人が自分自身の人生を慈しみ、味わえるのはいつのことなのだろう?

だから「神風特攻隊」の歴史を経た後、私達の世代は叫んだのだ!

   「私の人生の価値とは?意味とは?」

もはや安倍政権が言う様な「お国の為に死ぬことだ」と言われて誰が肯くというのだ?
  ・・・肯く者だけ、そうしたければすれば良い、誰も止めはしない、
         皆が自分の信じる事のために死ぬ権利がある

   「私とは何か?」

その質問、それ自体がこの宇宙を始めたのではないだろうか?

その質問が問われる、今日この日、この瞬間のわたしやあなたの為に、
                137億年の宇宙の歴史があったのではないか?
    そして多種多様な生命体系が、
         70億のヴァリエーションの人々が(〝わたし〟が)満ちあふれた

       つまり、「宇宙そのものの問い」と「私の叫び」とは同じだったのだ

    すべての「根源的な問い」とは、「問いそのものが回答」なのかもしれない
                       それが〝自明〟ということだ

    宇宙が「問うた」からこそ「いまここ」がある、あなたが居て、私がいる
                  この無限に広がる宇宙の永遠の営みがある

    この〝自明〟のみが〝無明〟を照らす

     この〝自明〟とは、読んで字の如く、
      他人が幾ら説明しても
       自分自身で腑に落ちなければ何の意味も無いのだ

  「誰」があなたを重宝してくれたら、「あなたの価値が証明される」のだ?
あなたの恋しい人か? その人を「恋しい」と思っているのは「あなた」ではないのか?
ではなぜ、あなたは自分自身を「全ての価値観の根源だ」と喝破できないのだろう?
  なぜ他人を介しての証明、科学の説明、論理の構築が必要なのだろう?

あなたは自ら作ったピノキオに、
必死に自分の価値を問うジョセッペ爺さんでは無いのか?

自己受容とは、
それでも(条件を問わず)自分を受け入れる」
すべての(価値や意味の)根源としての自分を受け入れる」ことだ

全ての価値も意味も、自分自身をその根源として、中心として成立している
だからボトル一杯の水と全帝国との交換も成立するのだ


でも、だからこそ最終的には
私達は「自分自身」とは「究極的な牢獄だ」ということを突き止めるだろう
ところがそれは拒否、つまり自殺や殉教によって投げ捨てることは出来ない
なぜならば、正確に言えば肉体もマインドも「何も悪くは無い」からだ
私達が「質問そのものが自明の回答」であることに気が付いていないからだ
「問題にしていること自体が「問題だった!」のだ

自己受容という「愛の根幹」によって、それを「生かし切る」ことによってのみ
はじめて「自分自身からの自由(Anatta)」は可能になるのだ