トウシン氏が語る「ニセ主観、ニセ客観」という視点は
五井野正氏が言う「世間法の世界観」と平行している様に思う

世間法においては「自由度」、つまり「選択の幅」を拡げることが重視される
それはお金や権力を得ることであったり
世の中がよりバラエティーに富んだ商品、サービスを提案することだったりする

人々は「相対的な自由」のことを唯一の自由だと考え、酔いしれる
なぜなら「絶対的自由」を考えるとすぐに行き詰まってしまうからだ
全ての物事に「程度」がある以上、「限界」があり、それらはすべて「相対的」だ
だから選択の幅こそが自由なのだという発想の許では「絶対的な自由」など空想だ

人々が思いつくこと、考えつくことには全て限界がある
それは「自由とは相対的なものしか無い」という前提があるからだ

「人間は考える葦である」というパスカルの言葉が残っているが
これが、五井野氏が言うところの次の段階「真理法」の世界観だ

人は自らの肉体を限界だらけの物質世界に置きながらも、
「無限」や「永遠」について思惟思索することが出来る
これが様々な思考実験や論理的仮説を可能にし、科学万能(バンザイ)の文明を築いてきた
人間の思考力が生みだした文明の利器は、効率的に自然を探索し搾取してきた

肉体的にはか弱い「葦」の様でありながら、ライオンや象やクジラでさえも絶滅の危機に
追いやる程の威力を、文明の城壁(バーグ)を人間(マン)は築いてきた

ユダヤ人の名前に〝バーグ〟や〝マン〟が多いのは偶然ではない
彼らこそは科学文明による神へのチャレンジャーだったからだ

それを私達は〝客観科学〟と呼んで崇拝した
この「神以上の神~科学力」は私達の生活の自由度を今も高め続けている
「これこそ〝神が死んだ〟あとの新しい人類の神、庇護者だ」と誰もが思っている
私達は皆、知らない間にこの真理法が生みだした新しい神の信者なのだ

全てが有限のこの時空の物質自然界で、「無限」や「永遠」を思惟してきた思考力は
当然、自然界をメチャクチャに荒らし回り、他ならぬ私達自身の生存権すら脅かしはじめた
ここに至って初めて私達は「選択の自由とは本質的な自由ではない」ことに気が付き始めた
真理法とは最終的には「全生命の破壊」をもたらすということが見え始めてきたところで
科学的再現性、〝いわゆる〟客観性は「神と言うよりは、むしろ悪魔ではないか?」と
私達には見え始めた

そこで、〝主観科学〟ともいうべきオカルティズム、スピリチュアリズムが台頭してきた
人々は仏教的な〝悟り〟に興味を持ち始めた
欲望を解き放ち、選択の自由を無限に拡大し続けることは破滅の宿命を背負う
古代から営々と受け継がれながら、細々と引き継がれたシャーマニックな
メディスン、漢方の世界や、預言、占托、チャネリングを
ホーリスティックサイエンスと呼んで、現代を席巻する客観科学とは〝別の〟
カウンターサイエンスなのではないか?と手探りしはじめた

「非科学的だ」ということで閉じ込められてきた〝感じる〟という主観も、
実は大きな視野から見れば本当は立派に〝客観性を帯びているのではないか?〟・・・・
遅ればせながらそういった認知が人々の間でも20世紀後半から
ゆっくりゆっくり市民権を持ち始めた

内なる本能を「野蛮さ」「迷信」として封をしてきた私達だったが
カタストロフ的(冥王星的)不安やアイデンティティーの揺らぎが、私達に
「生命科学」「主観科学」なるものへの可能性を「考えざるを得なく」しはじめたのだ

ニセ主観~欲望が、ニセ客観という科学万能教を生みだした
そしてこのニセ主観は、
自らの生みだしたマトリックス、スカイネット(つまり社会システム)の奴隷になってきた

でも、ニセ主観というのも真主観の一部ではある、
単に「部分である」のにも関わらず、それが「全て」であるかの様に暴走していただけだ

現在のスピリチュアル・ブームは、いまだこの「ニセ主観」に振り回されて「ニセ客観」
つまり「科学っぽい宗教団体」に振り回されている ・・・科学と名乗れば盲信してしまう

現在は「科学っぽい宗教団体」の百家争鳴状態だ
それらのグループは、
「それなりにある程度の神秘体験やら御利益やら奇跡的現象」が起きて来るという
厄介な特徴がある・・・、
金粉が出たり、UFOだのオーブだのの写真を撮影出来たり、チャネッたり・・・

人間は思い込み、信念に基づいて、ある程度のその投影が現象化する・・・、
それは確かに科学的な法則なのだけれど、それは「物質的な客観科学」よりもヤバイ世界
なのだ・・・ 
バシャールの言動からすると、そのアタリがアトランティス文明の崩壊原因だった様だ

物質科学文明の限界に突き当たったからこそ主観科学に回帰したはずなのに
またしてもここで〝現象化主義〟に捕まってしまう・・・それは太古の、
「遙かに危険なパンドラの箱」なのかも知れないのに・・・・

つまり今はまだ「ニセ客観科学の代わりにニセ主観科学を持ってきた」危険な状態なのだ
〝現象化主義〟の罠から脱した時に初めて〝真主観〟の全貌が見えてくるだろう

どちらにせよ「非力で不安な〝考える葦〟」は、
欲望の奴隷であり欲望の乞食であり、自分で自分の首を絞めて自殺するのだ

・・・しょせんは〝考える葦〟には「相対的自由」「選択的自由」しか思いつかない、

「自由とは何か?」という真剣な問いは、人間の幼年期の終わりを告げる最後の質問だ
    「くそガキ」だけが、自由とは何かを問うこと無く、自分の欲望を振り回すのだ

法華経で預言されている「地湧の菩薩」とは、オカルト現象なのでも地下帝国でもない
たとえそういう世界があったにせよ、とりあえず私達がすがるべき対象ではない
それは実際に存在していても、メタファー的な存在なのだと思う

地底人はいるか?

お地蔵さんの様な種族が
もぞもぞと地下から地上に這い上がってくるのを待つべきではないのだ

・・・つまり「地湧の菩薩」とは「潜在(泥池)的な私達自身の可能性」のことだ!

沼地(物質文明)の〝葦〟は、
泥池(成熟文明)から咲く〝蓮の華〟へと変容しなければいけない (でなければ滅ぶ)
 それは「非力さ」から、力強い大地と一体化したブッダたちへの変容だ

泥~つまり物質的欲の中から生まれ、育ちながらも、
その〝欲〟が〝望 (無限や永遠) 〟と癒着して〝欲望〟となる愚かさを見抜き、
〝欲の根〟を深く広く泥池の中に拡げながらも〝欲望〟の虜にならない・・・

そこでは思考された「自由」とは全く別の「地湧」の歓びが得られるだろう
物質文明が提供する選択的豊かさが、束になっても得られない「唯一の自由」がある

ドストエフスキーが「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」で描いた
「大地への接吻」とは、人間が「地湧の菩薩」へと変容した瞬間なのだと思う

この時、ラスコールニコフとは真主観であり、接吻した大地は真客観~地球的意識だ 

それはいわゆる神秘主義者達が期待する神秘的な体験ではなく
相対的、断片的と思われてきた「この」物質世界の中にちゃんとあった
それらを「どう利用しようか?」という欲望から見れば物体とは限界だらけだが
その「ものそれ自体」を見つめていけば、ちゃんと「石は石自身のことを」語り出すのだ
有限そのものの中に、ちゃんと無限、永遠はあったのだ!