次元観察子~ケイブコンパスという発想の理解そのものが、
ある意味ではもう「悟りの世界」そのものかも知れない
それは「十牛図」で牛を探す少年、そのものだ

J・Krishnamultiは、
「花を見る時 、なぜ『花を見る自分』があると思うのですか?」
という凄まじい問いかけを残している

つまり、
〝体験〟に対して〝体験者〟を別々に想定してしまっているのであり
    これこそが人間という種族だけが持つ基本的な分裂症なのだ

花を見ている時、「花を見ている」ということが「わたしのすべて」なのだ
     〝その時、その瞬間〟〝それしかない〟のだ



「悲しい」ならば、ただ「悲しい」だけがある
「嬉しい」ならば、ただただ「嬉しい」だけがある

〝私が〟悲しい、〝私が〟嬉しい、だなんて何で言えるのだろうか?


でも人間は肉体という体験の中核〝らしき〟ものからの
            自己同一化から、なかなか離れられない
     「花を見ているのは〝私の〟眼球だ、〝私の〟脳だ」と
                  ついつい科学的に連想する

それゆえに人間は
自分の肉体の損傷や病気、老、死に対して絶対的な恐怖感を持ってしまう

   その<エゴという幻想の重み>から切り離すことが可能なヒントが
               ケイブコンパスという発想にあると思う・・・・

あらゆる次元の、あらゆる座標から、あらゆる方向を観察することが可能なのは
                   人間のみが達することが出来た特性だ・・・

    この時、宇宙は光よりも早い ( 量子もつれ ) 純粋意識によって満たされる

いわゆる「人の立場になって考える」という日常的な教訓もこの卑近な応用だ
   「花を見ているわたし」とは「ケイブコンパスのことだ!」とも言える・・・

「私とは何か?」と問うた時、「その質問自体があなたです」とバガヴァンは答える・・・ 

              私から言わせれば、「これら全部は同じ答え」だ

パパジは言う、「あらゆるものが意識じゃないですか?」



人はどこにいて、何をしていても、それが「いまここ」だ
           それは「花を見て」いても同じだ

わたしたちの「いまここ」は常にひとつしかない
わたしたちは二箇所に同時に存在することは出来ない
そう受け入れることが出来た時、
人間はある意味「植物」へと進化する
どど~んと「いまここ」に根を下ろし始めるのだ・・・

なぜならもう「分裂」出来ないからだ、
  「無限に自由な観察子」でありながら・・・
       ・・・否、「だからこそ」なのだ
    ・・・完全な自由、無限の瞬時性にはエゴは介入出来ない

スピリチュアルとは本来、その瞬時性に深く没入~スワミ(座身)していくべきなのに
逆にそこからの逃避になって「ライトワーカー」だの「セッション商売」だのと
     「欲張りな夢」の温床になってしまっている・・・
          それは唯一の〝ここ〟からの徹底的逃避、直面の回避

いわゆる「多次元」とかいう言葉をもてあそんでいる人達だって
同時多発的に二箇所にはいられない、ただ、ケイブコンパスは光よりも早く瞬時に
鍋焼きうどんを喰っている今の日本のおれ」から
タイでおはぎを作っている榊みやこ達」に
ネットやイマジネーションを介してワープできる、と言うだけで、
やはりそれは「同時存在」ではない

もし、同時存在とか共時性ということを言うのなら、
ケチな事をつべこべ言わず、
いっそのこと徹底して「すべてはひとつ」と宣言すればいいじゃん


「NOW HEREとはどこのことですか?」と問うなら、
「NO WHEREですよ」と回答可能だろう
なぜならケイブコンパスとは
「どこでも行けるが、それ自体は〝どこでもない〟(非局所性)」からだ

 そしてそれが「純粋意識」の本質そのものでもある
  「いまここ」とは「わたし」という存在の「時空的な言い換え」にすぎない

  私たちが生ある間、肉体の上に物理的視座が固定しているのは、
  まったく正反対の可能性を同時に提示している

  それは、「時空間の中で人と分離してひとりぼっち」という相対観と
      「どこに行き、何を観ていても私という視座は微動だにしない」という
       絶対的な「〝不動の視座〟への不断のヒント」という真逆の両面性だ

みながそれぞれのユニークな資質、ユニークなシチュエーションの体験を積み重ね
 そして誰もが世界で前人未踏のユニークな視座の中にあることで
  「私という存在を完全に理解出来る人はいない」という絶対的現実を
    ・・・悲観的に取るか? それとも「大いなる尊厳」と転換して取るか?
   そこが、人が無限の狂気に落下するか?、無上の喜悦へ至るか?の分岐点だ・・・

  それはケイブコンパスという無限の自由な可能性に目覚めた
   私たち人間という種族が個々人の責任で引き受けた「苦悶とエクスタシー」だ 
それは、キョロキョロ周囲の顔色伺うこと無く、徹底的に無条件に自己受容できるか?
  ・・・そこにすべてが掛かっている ・・・そこに宇宙的な重みが掛かってくる 

    私たちは「自由過ぎちゃって」勘違いし、苦しんでいるのだ(笑)