質問
OSHO、禅の逸話や禅師の法話にはほとんど愛や慈愛への言及が見られません。
どうしてでしょうか?

アナンド、あなたがだれかを愛するとき、
あなたは「愛している」と何度も何度も言って、相手を困らせたりしてはいけない。
そうでないと、彼はあなたを殺してしまう。
xxxx中略xxxxx

デール・カーネギーの本はアメリカでベストセラーになっている、
聖書に次いで第二位だ。彼はクラスや学校を開設していたが、
そこで人びとは愛しているかどうかなど関係ないと教えられた。

問題になるのは言葉、表現だ。
内面についてだれが語りえようか?
 家を出る前に、妻にキスして言いなさい、
「愛しているよ、いとしい人。でも行かなくちゃならないんだ」

xxxx以下略xxxxx

実際、カーネギー本を読んだ人なら知っているだろうが、カーネギーはそうは言ってない
「表面的なおべんちゃらは偽だ、」
「相手を称賛する時は心の底からそう思えることだけにしなさい」
っと言っている

だから一見、彼の「人を動かす」と言った様なタイトルにはあまりイヤミは無い
・・・・いいじゃないか?「心の底からの称賛」ならば?

ノ・ジェス氏が主催するNRジャパンの弟子達などは、「褒めゲー」などをやっている様だ
これも同じ、・・・一体誰が「他人を称賛する」ことがイケナイだなんて思うだろう?

人を褒める、許す、愛する・・・・ それを言葉にする
 ・・・そうしてポジティブなエネルギーを引き寄せる
    ・・・そこの一体何か問題が有るのだろうか?

たぶん、「問題は無い」
しかし、これは「人生に如何なる動機を持っているのか?」というのが
重要なポイントになってくる

「他人と上手くやっていきたい」「社会的に成功したい」ということならば、
あるいは斉藤一人氏が盛んに薦めている「他人に愛を与えて、商売も繁盛」
ということがスタートラインなのならば、たぶんそれは実に有効な
アファーメーションなのじゃないだろうか?

「あなたを許します」「わたし自身を許します」「愛してます」「ありがとう」

それらは社会の潤滑剤になるだろうし、
そのハッキリした言語化は確かに自他のセルフイメージを向上させるに違いない

たとえば
あえて心を込めない〝ありがとう〟の連呼」だって
ちゃんと機能するし、言霊的効果はある

・・・ただしこれらはあくまでも〝対社会〟〝対人間関係〟に関してに限定される
   セルフイメージというのも、あくまでも〝社会の中での〟セルフのことなのだ!

実はポイントは「心を込める、心がこもってない」ではなかったのだ!
ここが今回の記事の一つ強調したいことだ


ん?・・・「自己実現は絶対的に必要だ」、そして「私はお金に敬意を払う」って
      オショーいってたやん?

  ・・・じゃあ、やっぱ「自己実現」と「経済的な成功」って同じじゃないの?

ところがここが〝ミソもクソも一緒くた〟にしてはマズいところなのだ

OSHOが言っていた「自己実現」とはエンライトメント、まさにズバリそれのことであり、
OSHOが言う「自己実現」と
カーネギーやナポレオン・ヒルの様な「成功哲学」とは〝混ぜるな危険〟なのであ~る

・・・私の様な社会的な適応障害を持っていることに関しても、OSHOは
       「ま、社会って狂ってますから気にしなくてイイヨ」と言っている

OSHOは「お金が悪」という観念に染まった、いわゆるスピな人達に対して
「私はお金に敬意を払うよ」っと釘を刺しているだけだ
・・・「対告衆が誰か?」が重要だ

「瞑想はあなたから全てを奪い続ける・・・」 つまり〝引き算〟なのだ

一般的な成功法則の教師達が私達に教えているのは〝足し算〟だ
だから、「人生をより豊かに足し算していきたい」ひとは
斉藤一人やカーネギーのセミナーに行けば良い

でも、「引き算」したい人は、瞑想に精進するべきなのだ
OSHOが「スピリチュアル・テロリスト」を自認しているのもその点だろう

やはり、「足し算」で得られる自己実現もあれば「引き算」の自己実現もある

どちらも間違っていない、それは動機の違いと、それによる目的地の違いだ
・・・もちろん「足し算」と「引き算」の目的地は正反対だが、それで良いと思う

私の目的地とは「引き算」で導き出される答えだった
でもそれはもしわたしがバングラディッシュで飢えと闘っていたのではどうにもならない

わたしがたとえ瞑想に興味を持ったにしても、
それはオウム真理教の様に「超能力が得られるかな?」といった動機からだろう・・・
結局のところ、わたしは乞食のままだ、
物乞いするものが「食べ物」「金銭」から「超能力」「霊界での昇格」といった対象へと
スライドさせただけのことだ
そういった人達に対してOSHOは
「物質的な豊かさをもっとリスペクトしなさい、感謝しなさい」と言っているわけだ

バシャールは「まあとにかくワクワクが羅針盤だよ」というが、
それはその時々に、
その人が本当に必要としているモノをインジケートしてくれるからなのだ

・・・人は皆、
  自分の細胞レベル、本能のレベルで
  トータルに望んでいるモノに向き合うとワクワクする

それは恋愛かも知れないし、お金かも知れないし、新しい人生の選択かも知れない
特に重要なのは、まだ自分自身でさえ自覚していない〝何か〟かもしれない

昨日まで「足し算」をし続けた人間が「引き算」にワクワクしはじめるかもしれない
「引き算」に拘って骨皮筋エモンになっていた人が、
突如「足し算」にワクワクしはじめるかも知れない・・・それで良いのだろう

私は先日、女性達に、よってたかって褒めていただいたが、その結果、私は
「他人に褒めてもらっても充たされない」ことを実感した・・・
でもそれはその体験をしてみた結果、自然に得られた自覚だった

  (だからその女性達には感謝していると同時に、
   その称賛を素直に受け取れなかったことを申し訳なく思っている)

往々にして、
「自分の本当にワクワク出来る方向」とは
「それではないもの」のコントラストで強烈に自覚させられるものなのだ・・・・
だから「足し算」が間違っているとか、「引き算」が正解だとか断言出来るものではない

人間とは「天と地との正反対の無限なるものの結合」なのだから・・・・

「OSHO、不正と闘うべきでしょうか?」
「人はあらゆる〝べき〟も〝べきではない〟も持つ〝べき〟ではない」

あっはっは、ですな