生命にとって価値の根底は「生きること」それ自体にある

もし「お前はなぜ生きたいのか?」と問われれば
誰もが答えに窮するだろう ・・・それはロジックを超えているからだ
それゆえにシンギュラリティー「人工知能による自我の芽生え」はありえない
演算の速さやロジックの蓄積、無機的な情報の蓄積がどれ程膨大でも
すべての根源となる「存在への渇望」は後付けでは芽生えないからだ

エサを探し、子孫を残すという生き物の営みが始まってから
この世に価値と無価値との差異は始まる

全てが等価ならば、生きる為の何の努力も格闘もないだろう
「価値ある生き生きとした世界」は「生を望むあなた」から始まるのだ

生を渇望するものがいない、無機物だけで占められた世界に
一体どんな意味があるだろう?鉱物資源があるだけだ

そして人間は
ものごとの意味を考え、言語化して、ラベリング(名詞化)し、
カテゴライズして言葉と論理によって思考する

それがご存知のように地球上で最強の武器と甲冑として
私たちの文明を作った、・・・「生きる」ことの延長としての「生き残る」上での
最高の手段をわたしたちはその他のあらゆる生物に上回って手に入れた

しかし最強の〝生き残る手段〟としての論理的思考能力が、
すぐに〝生きる目的〟へとすり替わっていった

「人生の意味」の論理的追求・・・・  である

人はなぜいつも頭の中でおしゃべりし続けているのか?
・・・それは発狂しかかっているからだ



思考能力という〝手段〟で〝自分が存在する意味〟を
確証し、実感しようとする主客転倒の狂気に私たちは日常的に囚われている

私たちは皆
デカルトの「我思う、故に我在り」という自己証明のループに陥っている

文明とは、本来魚を効率よく捕獲する為の罠なのに、
その罠で自分自身を捕獲しようとしている

ロジックで何かを問うとき、まずはじめに、
「それが本当にロジックで問い得る質問なのか?」を吟味すべきだ

だからその壁に、限界に、禅の公案がある

そこに思考の沈黙(ギブアップ)があるとき、
そこでひとは漆黒の闇を、死の恐怖を感じる

全てのスピリチュアリズムを裏切って、死後の意識なんて無かったなら?

本当はそこには何も問題は無い
私達は睡眠中だって完全に昏睡状態の時が何時間も、何度もあるが、
そこには苦痛は無い
「苦痛を感じるひと」そのものがないとき、もちろん苦痛はない
しかし、そこに「考える私」の不在をも意味する為、論理はパニックを起こす

わたしたちは、「何の確証も無い世界」が好きではない
なにか自分を肯定してくれる手応えや信念が欲しい
・・・すべての〝探求〟とはつまるところその為の努力に他ならない

論理的思考は決して「シュレディンガーの猫」を受け入れがたい
「在る」ものは「在り続けるべき」であって、突如消滅してはならない
「完全な無」とはあくまでも「無の継続状態」であって、
そこから唐突に何かが発生してはならない、それは論理的ではない・・・

ところが私たちは日常の中でも、
自分自身が「在る」と実感したり、全くの無自己の状態を経験している

そんな風に書けば
きっとあなたは「忘我と無我とは違う、単なる記憶の消失だ」と反論するだろう
ではなぜ私たちは自分たちの存在証明をしたがるのだろう?
誰かに承認してもらいたがり、忘れないでいて欲しいのだろう?
自分が重要でありたいのだろう?

  ・・・それは「自我が消滅していることもある」と
     どこかで知っているからではないだろうか?

「わたしは在る」  ・・・それでいいではないか?

しかしそうはいかない 
わたしたちは皆どこかで
「我思う、故に我在り」ということの〝危うさ〟〝怪しさ〟を知っているのだ

・・・そして間断なく思考することで、その危なっかしさから逃避している
   だから言いたい、私たちは皆、狂気寸前に、
    「自分自身に言い聞かせ続けている」存在なのだ

すべての論理はそれなりに美しい、
ぐるりと回って、独自の美をたたえて円を描き、究極的には出発点に完結する

   すべてはゼロに帰する・・・美しい!

         ・・・でも、「だから何?」なのだ

そこで
  天才には狂気の道しか残されていない
     論理には破滅しか残されていない

 真に論理を突き詰め、煎じ詰めれば、すべてはそうなる
 なぜなら論理とは「武器」として生まれているから、その動機に戻るのだ

 私たち凡人は、だから「考えすぎないようにしよう」とする
 「アタマおかしくなっちゃうから・・・」である

 私たち凡人に許されているのは、残されている道とは
  「社会生活が営める程度の中途半端な狂気」 だけなのだ

私たちに「生きる」ことは決して許されない
なぜならそれは「死と隣り合わせ」であることを意味しているからだ

私たちに「徹底的な探求」は許されない、それは狂気を意味する

私たちに唯一残されている探求とは「生き残る手段」の模索だけだ
それだったら学んだり、マネしたり、論理的に発展させられる
「手段」の世界だったら無限に広がり続ける、発展出来る

しかしそこには本質的な「なぜ?」という問いが残り続ける

 「生き残る手段(ハウツー)」とは常に
  「生きる」という根底的衝動に対する問いかけへの、
      すり替えられたチープな回答に過ぎない
        ・・・それは永遠に私たちを満足させることはないだろう

「わたし」という意識は何かの実体なのか?
それとも「脳の活動が描きだした〝現象〟」に過ぎないのか?

それは
すべての「存在」が、日常的に「無」と自由自在に往来しうる・・・
夢と現実との境界線は実は曖昧だ・・・
という
非論理的な仮説を受け入れるまで、
私たちの正気を蝕み続ける問いだろうと思う

沈黙

ゼロ

在る

深く

深く

深く…

至福

調和
 
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