「本当に自分がやりたいこととは何なのか?」
  ・・・・悩み続けている人は多いと思う

それが「何もしないことだ!」という回答に行き着くまでにわたしは20代の殆どを費やした

わたしは「ああしろ」「こうなれ」という親の期待や願望や不安の投影に
あまりにも 引きずり回されていたが故の苦闘だった、そして行き着いた回答だった

いま、私は親を怨んではいない、
前世でさんざん人を振り回したキリスト教の牧師だったときの私が積んできた業(カルマ)だった

「神に身を捧げる」という悲愴的な献身感に酔いしれることが如何に精神を不健全にすることか!
そういった宗教的な使命感は、結局の所、他人まで巻き込まずにはいられないものなのだ

しかし、そうは言ってもわたしは疲れ果てていた
「何もしない」こと、とは、
「何かしなきゃ」という成長とか、目的への邁進といった
「行動に駆り立てられた強迫観念」に対するボイコット・・・ 

   ・・・それは反動として起きたどうしようもない根底的疲労感から来るものだった

「何もしない」こと  ・・・真意としてはリラックスこそが、「一番したいこと」というパラドックスに
気が付いた時、私はとても嬉しかった・・・

 それは現代のニートやヒキコモリ君達に是非シェアーしたい歓喜だった・・・ 
  まるで人生のすべての難問が解決したかの様な爽快感だった

・・・が、しかし、そこにはあまりに激しい積年の疲労感があった為
        一気に反対側に動いたわたしの〝振り子〟は、
         〝そこ〟にもまた強迫観念があることに気が付く為には
                  とても長い年月が必要だったのだ

「静寂へのこだわり」「無為へのこだわり」「無選択へのこだわり」もまた、
微妙な意味で〝行動〟なのだ・・・

    ・・・・これは「目に見える行動」よりも、さらに!、遙かに!!、見抜くのは難しい

「無為へのこだわり」は一見、とてもスピリチュアルで高度だ、いや、事実そうだ・・・
しかし、所詮は「こだわり」に過ぎない・・・

「自分の本当にやりたいこととは何だろう?」と、
かけずり回っている若い人達がサルのように見える・・・

   ・・・まさしくその〝優越感〟に、実に巧妙で見破りがたい罠があるのだ


いわゆる「スピリチュアルな人達」「(神聖な)静寂を求める人達」の殆どはこの罠に嵌まっている

       「無為自然」とは「何もしない」ことではない

オシッコがしたくなれば単にトイレに行けば良いだけだ 、それもまた無為自然だ
それは無為であると同時に行為でもある、無為と行為とは同じコインの表裏であり、
それは一体だ

強迫観念が何かあると、ひとはジッとしては居られない、
マインド・・・ 「あれか?これか?」なしでいられない
見かけだけは聖人君子のように静かに座っていても、
こころはサルのような状態であちこちにかけずり回っている

本当に無為自然であることとはどういうことなのか? ありったけの洞察が必要なのだ

わたしはこの数十年で何度もこのヴィジョンを得て、何度も気が付いたのだが、
それでも何度も引き戻された

  ・・・「無為自然とは何か?」 知的理解は出来ても、それほどまでに、体得は難しい

    「わかったぞ!」と喝采しても、また引き戻される・・・  「判ったつもり」にハマる


だからこうして若い人達に、
わたし自身の「老いてなお悟れぬ」恥を忍んで告白し書き残しているのだ

 ・・・「何をしたいのか判らない、暗中模索の若者達」に

        そしてそれが「無為自然だ!」と見抜くことが出来たとしても、
         そのあと待ち受けるもっと難しい、微妙な罠に私は是非、注意を促したい

人は安易に判ったつもりになって「生の道」を選んだつもりで、実際には「死の道」を選ぶのだ

   だから「リラックスとは実は複雑な現象なのだ」というOSHOの真意はそこにあると思う

あなたのリラックスを助けられる本はない 
あなたがあなた自身の内側の実在を読まない限り・・・
 
そうして リラックスは「しなければならない」ではない 
リラックスとは不在だ、「行為」ではなく「行動」の不在だ 

だからヒマラヤへ行く必要はない 
幾らかの人々はリラックスするため それをしている 

彼らはヒマラヤへ動く ヒマラヤに動く必要は何?
行為は落とされない 
なぜなら もしあなたが行為を落としたら あなたは生を落とす 
ならば あなたは死んでいるだろう それはリラックスではない

だから(静寂な瞑想の場である)ヒマラヤで 
あなたはリラックスではなく 死んだ聖人を見つけるだろう 

彼らは生から 行為から逃げている

  ※ 現在字幕制作中の、OSHO「存在の詩」第四章より

わたしは30年前、
とっくにこの言葉と出会っていながら、恥ずかしい事にいまだに体得出来ていない

無選択でいられれば、人は美しくいられる、・・・「無限性」を失わずにいられる
そこで人は「悟ったフリ」が出来る

  ・・・ところがそれは「死の道」なのだ

私たちは生きている以上、選択を免れない
「私は選択しない」というなら、それが選択だと言うことになる

 「生きている」ということは、「仏像のような死んだ美しさ」に留まることではなく

  この「有限だらけ」「限定だらけ」の世界に果敢に挑戦することなのだ


それがなぜ「リラックス~無為自然への道」なのか?

  「選択をする」・・・するとそれに応じたある特定のゲームが始まる それは何でも良い

  進学の進路を選ぶことも、どんな師を選ぶか?も
   そして今夜のおかずをスーパーで選ぶことも、すべて選択だ

  重要なのはそれを「能動的に」選択することなのだ、「意識的に関わる」ことなのだ

  ・・・回避的動機、からではなく 単に「安易だから」ではなく  ・・・それは「何であれ」だ!

   降りかかってきたようなどんな運命でも、ハプニングでも、「能動的に受容する」ことだ

   そこではじめて、そのゲーム、その遊びが楽しみになる、祝祭になる

   「悲しいこと」「怒りに満ちたこと」でも、すべてが祝祭になる

その「転換の名人」になった時、私たちは初めてリラックスを会得出来る
それは「ガマン(受動的受容)の達人、聖人」になることではない

そしてそのリラックスの究極の先にエンライトメントがあるのだろう・・・
それは〝おまけ〟位に思っていればいいのだ