医療の世界以外に、「人を助けなければ」という動機を持つことは不適切なのです
J.krishnamurti 

世の中をよくしなければ、人々を啓蒙しなければっという気持ちには
長い間駆り立てられてきた・・・

その不毛さを理解することはとても難しいことだった、私には時間が必要なことだった

自分が「良い」と思ったこと、「正しい」と思ったこと・・・
それが他人には通用しないと言うことが、リクツではなく実感出来るか?
・・・それは〝若さ〟を代償に差し出すだけの価値があることだった

「正しさ」の範疇が如何に広大であるのかは、実は関係ない
どれ程、普遍的な真実を見い出したにせよ、他人というのはかけ離れた宇宙に存在している
石を投げればぶつかるところにいても、
〝他人〟とは、まったく違った法則が支配している全く違う宇宙の住人であると理解するのは
私にとっては、とてもとても難しいことだった・・・

その結果、目の前のその人が千尋の谷底に転げ落ちると判っていても、
救えないものなのだなあと最近はつくづく思う  ・・・説得というものはつくづく無駄だ

私は冷たくなりすぎたのだろうか?人生に醒めてしまいすぎた?諦めすぎてしまった?
そう何度も何度も自問している

・・・でもどう考えても、「世界から手を引く」方が面倒は起きないし、余計な労力や気疲れもない
そしてなにより、その方が誰もがハッピーなのだ

・・・たとえ、明日その人が千尋の谷に落ちると判っていたにせよ、である

世の中に予言能力のある人がそれほどは居ないことは、つまりそういう理由だった
・・・そんな人がやたら居ても、本当の意味では役に立たない、・・・それどころか!
  人々が自分らしく生きる上で、きっとむしろ邪魔なのだ

人にはそれぞれの役目がある  ・・・それがたとえ「破滅する役」であってもだ!

「社会を改善する」「人々を救う」という、一見絶対的な善に見えることよりも大事なこと、
それは「ひとりひとりの内なる悟性を信じる」ことだ・・・ それは「警鐘」「啓蒙」に優先する

なぜなら「未来に待ち受ける危険」は「本人も承知している」からなのだ・・・
表面意識では判っていなくとも、潜在意識ではすでに知っている、熟知している
〝その上で〟人は皆、生きているのだ、自分自身も・・・

  そういう意味では基本的には「すべてを手放す」「見ているだけ」という選択肢しかない