大隋劫火洞然(だいずいごっかとうねん)3より

  「本質ばかりを見つめている人は、とても孤独に陥りやすい。」

恋したことは?

何故そうなってしまうのか?
わたし自身の臨死体験から言えば、死後の世界というのは完全な「ぼっちの世界」だからだ

そこにはクリスマスのようなめくるめく光の洪水の世界だけれど、
一緒にクリスマスを過ごしてくれる人はひとりも居ない
かなり探し回ったけれど、誰も居なかった

で、〝こっち〟の世界に帰って来てつくづく思うのだ
やっぱり「他人が居る世界は良いなあ~」っと・・・

ぼっち


・・・思うに人が輪廻転生を繰り返し、痛みや苦しみ、孤独でまた苦しむと判っていても
またこの「他人が居る世界」に生まれ変わって来てしまう最大の理由はそこなのかも知れない

つまり「死後の世界」イコール「エンライトメントしてすべてとの一体感に回帰した意識」では
              ・・・必ずしも〝ない〟  っというところがミソなのだ

  ・・・やっぱり、サマディーとは、〝分離感のある世界〟でないと得られない境地なのだ

        あなたは耐えられるだろうか?何億年も「ひとりぼっち」の世界に???
           わたしたちは、早速「次の子宮」を探し、そして今があるのだ

「無限の時間の孤独と退屈」と比較するならば、たとえ末期癌の断末魔であっても
「無いよりマシ」な、プリティーな体験に過ぎない・・・のだ



サマディー、エンライトメントとはある意味・・・、
この「5億年ボタン」を押したらもう「無の空間」から二度と帰って来る気をなくしてしまう
    ・・・っと言うワケなので、だからOSHOは「究極の死」といっているわけだ(笑)

実際アナッタ(無自己の自覚)に至った時は生命の進化の歴史で背負ってきたような
何億年もの「わたし」という過去の記憶が一瞬で 錯覚だったと気が付くので、
究極的な開放感がある (2010年5月に体感)

・・・だから、あなたのそれ以後の人生は
  誰でも、どんなことでも「無限の忍耐をもってして永遠に待つ」事が可能になる

          あなたは二度とバーゲンセールに駆け出すことはないだろう

おばちゃん達がスーパーのタイムセールに向かうとき


この、「無限の忍耐を持って、何億年だろうがいまここで永遠に待つ事が出来る」と
何でもばっちこ~い!って状態なので、平気で5億年ボタンを押せる

「今この瞬間に、永遠の時間がある」とは、
スピ系の人なら誰でも一度ぐらいは聞いた話だと思う
 ・・・これが実話であると知る事がどれ程素晴らしいことなのか?
  ・・・いや、ところが残念ながら誰にとってもそれは「恐怖」でしかないだろう

だからこそわたしたちは「いまここ」にいたたまれないのだ

<そこ(=底)>以外、他に<どこ>にも行き場なんてありはしないのだけれど・・・ね・・・(笑)




私たちにとって「何も起きない5億年の退屈」など、恐怖以外の何ものでもない
・・・もしそれが「退屈」ならば、だが

本当は誰もが知っている、「この一瞬」が5億年どころか、永遠に続くのだと
           ・・・だからこそ「待てない」「いたたまれない」のだ

この「無限の忍耐」を受容することを、誰もが死〝よりも〟恐れて(拒否して)いるが故に
           私たちという意識は眠りのブラックアウトに逃げ込むのだ・・・
                  ・・・そんな恐ろしいことは「感じたくない」から

たしかにこの肉体を失う時も、それなりの恐怖感はあるだろう
でもそれ以上の恐怖が、実は「いまここ」との直面にあるのだ・・・  毎瞬毎瞬ある

いつか来る肉体の終わりと同程度か?、いや、それ以上の恐怖が「いまここの連続」にある

わたしたちは「死を恐れて」いる、それ以上に、「生を恐れて」いる・・・
 しかしその恐怖はあまりにも圧倒的であるために、
  その自覚は日常の中では潜在意識に押し込められている

   このパンドラの箱を開けようとする試みが「瞑想」だ、「無為と沈黙」だ

これらの「挑戦意識の反転という挑戦」が、瞑想だと言えるかも知れない
そこでは「退屈」という最大の恐怖と直面することになる・・・

  ・・・「こんな、非生産的な、理不尽な時間に人生を費やしていていいのか?」
   ・・・「やらなければいけないことは、人生でいっぱいあるんじゃないか!?」

    そういった言い訳が、津波のように・・・あっという間に私たちの意識を押し流す

これらの「言い訳」が即ちマインドであり、それらに自己同一化しているのが私たちの日常だ

私たちは恐怖のあまり、日常に「受動的に」参加している・・・「渋々」参加している
私たちにとって「いまここ」とは〝強制参加〟の退屈なものなのだ

わたしたちがイベントや新しい人との出会いを求めて彷徨うのは
「受動的な能動性(=逃避行動)」に過ぎない

「あなたの現実は本当は自分自身が作り出しているのですよ」っと
都留晃一さんあたりが口酸っぱく語りかけても、なぜわたしたちが理解出来ないのか?
・・・その原因は、この「受動性」、この「渋々」、「日々の変わり映えない日常への退屈」にある

つまりは「如何に能動性へ転換するか?」が、最大のテーマなのだが
その前に「ゼロポイント」の転換点への入り方が理解されなければいけない

「いまここ」はカンペキに正しい、そこには「すべて」がある 「ありのまま」がある・・・

オーケー、でもだからといって「変化してはいけない」ということではない
「ゼロポイント~無為と沈黙」に私たちはタッチする・・・するとすなわち〝転換〟が起こる

でも「転換<する>」のではない・・・  それは「自然に<起こる>ことだ

         「改善され〝ねば〟ならない」 

         「昨日より〝BETTER〟であるべきだ」

         でも「そうはなっていない」

         ・・・そこに焦りや苛立ちがあるのではないだろうか? 

その「改善願望」は本当に自分自身のものだったのだろうか?

「昨日から進歩が見られない」っと見て苛立っているのは、本当に自分自身なのだろうか?

・・・そこに酸欠でアップアップしている金魚のような自分自身があるのではないだろうか?

本当の自発性、能動性だと思っていた、思い込んでいた自分の中の焦りの正体が、
           実は受動性だった?・・・本当の自分の自発性ではなかった?

だとすれば
「変わり映えがしない〝いまここ〟の現状」こそが、実はすでに能動性の発露によるもの?

ならば
    「能動的になるべき」だったのではない・・・
        わたしたちはすでに「能動的に人生を作り続けていた」ことになる
              ・・・実はその結果が「この現状」なのだ

   自分で腹を痛めて産んだ実の子供を、認知しなかった、受け取り拒否していた
                 その「我が子」こそが「この現状」なのだ

「能動的に〝なろうと〟していた」  「・・・でもなかなか〝なれない〟」
              という現状認識がすでに間違っていたことになる

           わたしたちはすでにずっと「能動的に人生を作り続けていた」のだ!
           ただその〝自覚〟が無かったが故に人生を引きずり続けていた
           わたしたちは「自覚の無さ」故に受動的だったわけだ・・・
あなたたちは「100%の自己信頼なんて到底無理だ」と言うかも知れません
でも私たちから見れば、あなたたちが完全な自己信頼を失ったことなど一瞬もないんです


バシャール「究極の、無限の自己信頼」 投稿者 maneel-katal
だいたいさ、人間って受動的に出来てるじゃん?
「この物質界があって、そこに自分が生まれてきて・・・」って 半田広宣


もともと私たちは皆「ひとり」だった・・・
「物理的に他者が存在する」かどうか
「他人と仲良く共存できるか?理解し合えるか?」は、全く無関係なことだった!

 「すでに誰もが自分の人生の〝唯一の〟クリエイター(能動者)だった」

 「ところが〝変わり映えしない〟ことは新規の創造ではないという錯覚
  受動的な恐怖に、わたしたち自らを縛り付けてしまう原因となっていた」・・・というわけだ

そのマトリックス構造を理解する(積極的に受容する)ことが、「能動的に能動する」ことなのだ

「新規の客をどう呼ぶか?ではない 〝大企業が勝つ〟〝みんなで勝つ〟時代では無い
  時代は変わったのだ!
  今来ている人達をいかに喜ばせるか?・・・  それが〝ひとり勝ち〟の時代」