「 聖と性と生」 – トリニティ&フルトリニティ&ボディラブトリニティ公式サイト
(前略)

・・・そうです!
キリストの真の一番弟子とは最愛の女性でもあった「マグダラのマリア」でした。

だから、そうやって葬られた彼女の存在が
ついにちゃんと世の中で受け入れられるようになることは
女性性の抑圧の歴史を終わらせて「無条件の愛の子宮」を
目覚めさせる転機であり象徴になるのです。

もはやそれは「ダヴインチコード」の中だけの話ではなく、
なんと当のバチカン自体が今年の6月には
「マグダラのマリアを12使徒と同格の聖人とみなす」(本当は同格以上だけど!)
という決定を下したぐらいに現実の世界を動かしている流れなんです。

でも、さらにマグダラのマリアが成し遂げた本当の偉業があります。
それは未来永劫バチカンは認めないようなことです。

それはキリストとマグダラのマリアが肉体で交わり愛し合ったという
キリスト教最大のタブーです。

わたしは以前の記事(「南無妙法蓮華径」)で以下の様なことを書いた

〝妙法〟というのは〝少女の法〟と字割り出来る・・・

すると、妙法が何故〝仏法〟よりもプライオリティーが高いと言われているのか?
・・・その謎が解明出来る

つまり〝少女〟とは悟った直後のゴーダマ・ブッダの命を救った
スジャータのことを暗示しているのだ・・・

この私の仮説を先日、「まほろば創生」のわたなべさんと嶋田さんと言う人に話した後
「これってキリスト教ではマリア信仰だよなぁ~」などと、ひとりで思いに耽っていたら、
ちょうど昨日、この冒頭の記事をフェイスブックで見かけた

「処女懐妊」と「娼婦」・・・ イエスの生涯におけるこの一件正反対の状況の二人の女性が
両方「マリア」という名前で通じているのは、わたしには到底偶然に思えない

・・・瀕死のゴーダマを救ったのがスジャータであるならば
ナザレのイエスに
  生を与えたのは母マリアであり、
   性の契りを交わしたのがマグダラのマリア・・・?

「生」の経験にせよ、「性」の経験にせよ、 ・・・それは汚らわしいものではなく、
〝聖〟なるものへと昇華出来る  ・・・それを二人のマリアの存在が語っているように思う

そして救世主キリストという称号はインドのクリシュナ神が語源とも言われている
それは透明な水晶石~クリスタルとも語源を共にする

だから
「キリスト」という言葉は救世主と言うよりも「神聖なる透明な結晶体」という意味合いの方が強い

「透き通ったもの」が何で「神聖さ」なのかといえば「曇り」は「穢れ」「やましさ」だからだ

二人のマリアとイエスとは「生」「性」「聖」が三位一体であることを象徴しているように思う・・・
この統合があってはじめて「穢れ」は清められ、払われる・・・ 

・・・それが結果的に地上を天国にする
この統合があってはじめてイエスは神聖なる透明さを復活させるのではないだろうか?

イエスが、マグダラのマリアと教会の教義上の都合で肉体的に切り離されてきていたことが
もしキリスト教文明が席巻したこの星の文明の最大の歪みの原因なのならば、
キリスト教会こそが最大の「アンチ・キリスト」であったと告発せざるを得ない

・・・スジャータが餓死しかけていたゴーダマに乳粥をすすめている姿が
  マグダラのマリアが教会の教義を乗り越えてイエスと二千年ぶりに再会している姿に
   重なって見えないだろうか?

また、「処女懐妊」という性的な抑圧のドグマを背負わされた、母マリアも
ここにおいてその腐敗した神話の重荷をやっと降ろすことが出来るのではないだろうか?

その重荷とは
人間を分裂状態にしておきたければセックスを抑圧しろ で書いておいたつもりだ

・・・・人間を狂気に貶めたければセックスを抑圧すれば良い
   呼吸を止めたり、飲食を禁じたりという程、致死性は高くないが
   即死しない分だけ多くの罪悪感、精神的錯乱、倒錯、緊張へと
   じわりじわりと確実に追い込んでゆくだろう  ・・・全人類を!

「妙法」とは、
涼やかで繊細な処女性の神秘がもたらす、
仏法やイエスの光の存在をも包み込むヴェールのことだと思う

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・・・それは西洋では聖母マリア信仰という形となったが
  その本義は決して「性が汚い、汚らわしい」というのではなく、むしろその逆のように思う

たぶんノーシスが指し示した「性エネルギーの昇華」も、
OSHOのタントラ・ビジョンも、その原理はそこにある

聖母マリア像の豊満な乳房を見て、誰もが温もりと、あるいは性的な欲求が喚起される
そしてそれは「聖なる母に欲情してしまった」ことへの罪悪感と、さらなる性的興奮をそそる

・・・しかし、だ。

  もし私たちが初めから「聖なる母の子宮の中に今も居る」のだとしたら???
       ・・・・わたしたちはすでに聖なる母と性的に結ばれていることになる

なぜなら、男性にとって性衝動とは
  「母なる子宮に帰り、自我を消滅させたい」という衝動なのだから・・・・

そして女性にとっての性衝動とは、
  自らが「生命の全て」を包み込むおおらかさ、暖かな空間そのものだ・・・という自覚だ

わたしたちは、この地上の世界こそが実体であり、
水面に鏡のように映った世界は〝虚像〟〝鏡像〟なのだと認識している

しかし、この水面こそ、 ・・・・この〝鏡〟こそが、
私たちの本質そのものを象徴しているのでは無いだろうか?
鏡に映る自分の肉体の映像が「自分」なのではなく、
その背後にある「鏡」が「わたしの本質」なのだとしたら、
それは実にヌーソロジー的では無いだろうか?

・・・・この〝鏡〟
つまり物質世界そのものが聖なる母の子宮であるならば
        わたしたちはすでに彼女と一体であり、
        「わたしたち」とは「彼女そのもの」だと言える

・・・私たち自身も〝鏡〟であり、〝聖なる子宮〟なのだ 

絶頂の瞬間とは、男も女もエゴが溶解し、生と死が、性別が区別不能に溶け合っている
男は少年に若返り、女は少女に若返る

Prem Sheel -
聖なる果実は 男性でもなく女性でもない。
聖なる果実は <全体なるもの>としてのみ熟す。...


・・・これがクリスタライゼーション、結晶化であり、結果としての透明化だ

  透明化とは、「自他の区別が消滅すること」なのだと思う

あなたの中に魂の安らぎの場所を見いだし
君の目を通して世界を見つめると ボクはまた若返るんだ・・・」

バリーマニロウ「唄の贈り物」 from Katal Maneel on Vimeo.


つまり、キリスト~クリスタライズとは、
単なる世紀末における救世主再臨伝説というだけでは不十分で
まずその前に「永遠の若返り」を象徴している言葉だと思える・・・

セックスだけに限らず、
もし人生の経験というものが、総じて単にエントロピーの増大をもたらすだけなら
人生は汚れ、穢れていく一方向だろう・・・ 人生の経験は全て「泥沼」なだけなのだろうか?
               肉体的な老いと、衰え、そして死だけがすべてなのか?

・・・しかし、そうではないというところに、マグダラのマリアが罪を免れ、救済され、
そのマリアによってイエスも叉現代に復活(再臨)するという奇跡が可能になる・・・
                 それが〝妙法〟であり、泥の中から咲く蓮の華だ

! リトル・ブッダ「微笑みに輝く少女の頬」


ゴーダマ・ブッダもスジャータが差し出す乳粥・・・
つまり動物性のタンパク質をすすって、この世に留まった・・・
                     それも同じことを示唆していると思う

スジャータ

仏とは「無(透明)となり、永遠の光となった人」という意味だが、
ゴーダマは単に悟っただけならば光として肉体から飛び去ってしまっただろう・・・  

彼を引き留めたスジャータこそが単なる〝ほとけ〟を〝如来(マイトレーヤ)〟と変えたのだ
「女の口(膣)を通って来た者」つまり肉体を持ったまま、私たちと共に居てくれたブッダ・・・

! リトル・ブッダ「悟り」

「最良の友」~それが如来=マイトレーヤの意味するところだ

一緒に食べよう

それがOSHOがいうところの「ゾルバ・ザ・ブッダ」であり
「この身こそがブッダ、神聖なるもの、そのもの」という奇跡の体現だろう

如来~マイトレーヤによる救世伝説とは
「〝救世主〟も、〝救われる人〟というのもいないんだよ?その分離感は錯覚だよ?」

 ・・・・・・という究極のジョークのオチを私たちに告げに来たのでは無いだろうか?

もう作らなくていい

コルコヴァード(静かな夜)オリジナル和訳歌詞 from Katal Maneel on Vimeo.