昨夜はある信仰を薦められた

薦めてきた人はインディージョーンズの様な大冒険をいままでずっとしてきて
遂には最高の信仰を発見し、最高神と縁したという人だった

・・・その最高神への信仰を、私にも勧めてくれた  ・・・というわけだ

しかしどう考えても、この「無極神」とOHOのアナッタ(無自我)との違いが判らない

私が今回生まれてきた動機は、「今度こそすべてを終わらせること」である
すべての終焉、すべてからの究極の自由とは、「自分自身からの自由」である


すべての分離はあなたの錯覚~ナイト・アンド・デイ 投稿者 maneel-katal

そしてこの〝自分自身〟とはなにか?と言えば 「過去の集積」だ
それは物理的な記憶のことなのではなく、それを解釈したり意味づけしている観念のことだ


「火の鳥+OSHO講話朗読」~全ての過去が焼け落... 投稿者 maneel-katal

具体的にはあらゆる、「~べき、~ねば、~の為」こそが〝私〟の正体

だから、なぜ「無極神」を拝まなければいけないのだろうか?

自覚があろうが無かろうが、「無極神」とは私たち自身のこと
「私たち」という代名詞の着ぐるみを着た「わたし」のことだ

彼の信仰を否定しているのでも馬鹿にしているのでも拒絶しているのでもない
だって「自分自身を崇拝する」というのは素晴らしい宗教ではないか?

花を見る時、あなたはなぜ〝花を見る自分〟があると思うのですか? J・クリシュナムルティー

あなたが無極神に祈る時、世界も自分自身も、すべてが無極神で、それ以外は存在しない
「祈る者」が一心に祈っている時「祈りの対象」と「それに祈りを捧げる者」とは一心同体だ

ただ、「自分自身を崇拝する」ために〝宗教〟という形式はいささか大仰じゃないか?
                              っというだけだ

何の願望も、「こうあるべき」期待も、目的も、理想もない時、
一体世界に無極神以外の何が存在するというのだろう?
ただあるべきものがあるようにあるだけでは無いか?