これは
教えではない
ドグマでも教義でもない

だから
私は何でも言える
私は
何でも言えるという点に関しては
これまで存在した中で
一番自由な人間だ
私は一晩に百回
矛盾したことが言える
演説ではないので 首尾一貫していなくていいからだ

それは全く異なるものだ
そして 途方もなく変わった実験が続いていることを
世間が認識するには 時間がかかるだろう

ほんの一瞬
私が黙ると
あなたは(世界は)沈黙する

OSHOのこの
   イタズラ心に満ちた挑戦、
     彼の仕掛けた爆弾は、  まさしく、今という時代に炸裂している


この短い動画によって改めて・・・
わたし自身がなぜ若い時、高橋信次もミゲル・ネリのノーシスも
捨て去り、OSHOに惹かれていったのか?  ・・・自覚できた

その後一旦OSHOから離れて五井野正を20年間フォローしつつも
最終的にはなぜ彼の傲慢を見抜けたのか?   ・・・理解出来た気がする

「正しさ」「リアリティー」の探求 (というか渇望) 自体が私を苦しめていたからだ
高橋信次の八正道にせよ
文字通り私はその「正しさ」で八方ふさがりに自分自身を追い込んでいたのだ

はじめに「正しさ」が分かっているのならば「八正道」なんぞはじめから必要ないじゃないか?

私は何が正しいのか知っている」というでかい岩石の様な自分の思い込みこそが
「いまここのわたし」を分からなくさせていた真犯人だった

何かをコピーしている時、誰かをフォローしている時のみは
パソコン操作におけるコピペの様なデジタル精度で「正しさ」は主張できる
しかし、「デジタルコピーの様な正確さ」はパソコンの世界にのみ価値がある

物質の究極の姿を求めた量子力学のレベルに至って、
はじめてわたしたちは意識レベルでの探求に接触しはじめる
         ・・・そして不確定性原理とは唐変木な首尾一貫性ではなかった

OSHOの言葉は、「次の瞬間何が飛び出すのか?」
わたしたちは固唾を呑んで待つ     ・・・岡本太郎の様に目をかっと見開いて

                  ・・・その時、世界は醒めた沈黙に包まれる 

なんの弛んだ予定調和も、脚本も、着地点も予測できない時、そんな瞬間を体験できる