子連れ狼 第一部 第17話「雲龍風虎」で、
刀のない拝は敵に向かって、息子、大五朗を投げるシーンがある



「武士の魂」と言うべき刀も、拝は平気で投げ道具として使う
  ・・・冥府魔道に生きる拝にとっては刀も棒っきれに過ぎないという

卑劣な連中にとって、人質を取るのは常套手段だ
そしてその最も大規模なものが「日米安保」なのかもしれない

「個別的自衛権」とはいわば政府が国民と国土を守るということ
            ・・・つまり国民が人質になったようなものだ

「集団的自衛権」とはこの「守りあう約束」を国家間にまで拡げたものだ

 最終的には政府は「国民を投げつけても」政府そのものを守ろうとするだろう
 具体的には「権力者達」だ

「一般国民」は守るべきプライオリティーとしては低い・・・
それどころか最悪、大五朗の様に「敵に向かって投げつけられる」のがオチだ
それよりも「領土」であったり「政治の中枢」であったり「防衛システム」そのものが
最大のプライオリティーで死守されるだろう

個人は例え雇用されていても会社の〝奴隷〟ではない・・・
個人と法人との対等の契約に基づいて雇用も労働条件も決まる

では、「個人と国家」とではどうだろうか?

・・・上記の例で分かる様に、民主主義は単なるタテマエとして瓦解する
「国家が国家自体を軍事的に防衛する」というとき、すなわち個人は国家と対等ではない
「非常時にはお国のために個人は犠牲になりなさい」という暗黙の了承があるのだ

70年前に「敗戦」を受け入れた我が国は、単に「敗北した」というだけではなく
自発的に「不戦」を受け入れたのだ・・・

 単なる「敗戦」と「恒久的な不戦+天皇陛下の人間宣言(死守の中心ではない)」とは
  実に大きな致命的な違いがある

   もはや国家が個人を大五朗の様に敵に投げつけないという宣言だ

その安心感こそが戦後の日本の復興の原動力となった

しかし、「自衛隊」「日米安保」というグレーゾーンが残った
九条が「アメリカの押し付け」かどうかはともかく
現在の日本が、敗戦というキッカケ(≒外圧)によって誕生したことが揺るぎない事実だからだ

つまり純粋な日本という国の自発性として生まれた平和憲法でもないことは明白なのだ
つまり、「屈服」からうまれた「平和への祈り」 「敗北」から生まれた「民主主義」だった

・・・で、ある以上は安倍政権が生まれてくることは歴史の必然だった

 真に自発性からの発露ではない結論というものは、
  あとあとからグズグズとした議論が蒸し返されるものだ

戦前と全てが塗り替わった様でいて、そうではなかった

敗戦のトラウマ、強迫観念は、「明るい戦後の日本」の底流にずっと残り続け
そしてその矛盾の腐臭はもう抑えきれない程大きくなってしまったのだ

国家が国民を大五朗の様に投げ飛ばさない・・・っと宣言したにせよ
武器を持って迫ってくるものに「どう対処するべきか?」「なんの備えもしないのか?」

  その「漠然とした不安」ゆえに、自衛隊や日米安保というグレーゾーンを
  結局わたしたち日本国民は〝黙認〟してきたのではないだろうか?

「自分で自発的に決めた」のではないことは、致命的な欠陥がある・・・それは「覚悟」だ

大五朗を投げて血路を開くか?親子共々黙って殺されるか?・・・決めなければいけない
そのギリギリの決断をわたしたち日本人はまだ下していない



わたしたちは「何となく」守ってもらい「何となく」平和を謳歌してきた

・・・たとえ国家が国民を「投げつける」ことはないとしても、そのかわりに
  我々ひとりひとりがそういうギリギリの判断をせざるを得ないかもしれない
   という覚悟が必要に迫られているのだと思う

「不戦」の誓いを取り下げること、
例え専守防衛であるにしても、「武力に頼る」「事を構える」ということ
それはイコール
「最悪は大五朗を見殺しにしても、大五朗を敵に投げつけてでも血路を開く」覚悟だと思う

極端だろうか?
しかし「いくさというもの」は、覚悟無くして始まらないし、覚悟無くして終わらない

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