以前書いた記事だけれど
ブッダが茶を飲む
悟っていない者が茶を飲む
・・・何が違うか?

それは茶碗を持つ手に強迫観念があるか?ないか?の違いだ 
強迫観念は必ず極端を生む

社会に抑圧されたものは常に自分の中にある「社会」や「親からの条件付け」を
振り払おうとして、成人した後までひとりで何年間でも何十年間でも、もがき続ける

たとえばOSHOがいうところの「眠り(悪夢)」とはそういうものだろう

そのひとは社会の影響を脱するために「ひとり」に・・・、
本当の、素の自分自身になろうと必死で努力する
でもその努力がすでに強迫観念なのだ

成人しているその人の周りには、すでにその人が子供の時にその人を蹂躙した
ものは、とっくにすべて入れ替わっている、本人の細胞も7年で入れ替わっている

ところがその努力、もがきの継続、「過去への復讐」そのものが
強迫観念へと心理的に定着化しているのだ

その復讐劇が終わることはない・・・
たぶんそれは
短期的には失敗だったり挫折だったり
あるいは部分的にはスカッとした勝利だったり、劣等感の払拭だったりするだろうが、
そのどんな結果をどれだけ経験するにもかかわらず・・・ 場違いな復讐であること・・・
それがただの強迫観念であると気が付くまでは、この復讐劇は終わらないのだ

それら、作用と反作用の両方が静まった時、加害者も被害者も居なくなり
振り子に何の作意も働かないとき・・・、自由な中で重心が静まった時、すべては終わる