マインドそのものは悪いものではなく
人間が生き残るためには必要な機能だと思う

ただ、「手段」があまりにも「生きる目的」そのものを凌駕して「目的化」してしまったゆえに
いまの狂気の文明が自己破滅的に暴走しているというのに過ぎない

人々は自らの生活を共同で守るためのBARG=城壁として文明社会があるはずなのに
いまや文明と社会の防衛と発展のために個々人の人生が踏みにじられようとしている
まったく文字どおり「本末転倒」なことが、いま起きていることであり、それがSF映画の
ディストピア観の根拠となっている・・・

  「私たちは〝手段〟であったはずのAIの進化の暴走を止められず
   シンギュラリティによる人類の最大の敵の誕生を見過ごしてしまうのではないか?」

アメリカの軍上層部では、こういった危惧がいよいよ本気で取りざたされているそうだ

・・・なんのことはない、
  彼ら「軍隊」そのものこそが人々にとってもっとも恐ろしい暴走システムだ、
  軍産複合体こそが人々の生活、生命財産、幸福を踏みにじって自ら生き残ろうとする
  「手のつけられないジャイアント」であるが故に、彼ら軍人はシンギュラリティにまた
  自分たち自身と同じような危うさを感じているのだろう

  「まるで軍隊のように忠実な国防システム達が突如〝飼い主〟である軍人を裏切り
  手の付けられない反逆を企てるのでは無いか?・・・・」

そしてこういった構図は、実は人間ひとりひとりにも起き続けてきたことだった

マインドは「原因と結果」「手段と目的」といった二分法によって多くの成果を得てきた
そしてマインドは最終的な、シンプルな「ひとつの問い」に辿り着く

   「人生の目的とはなんだ?」

マインドは
今まで通りの「目的と手段」という二分法で、この究極の問いへの回答を得ようとする

そしてこの最大の難問を前にして、まずは人間の様々な非合理な「営み」がまず邪魔に見える
その最も大きな非合理性はセックスという行為に見いだせる・・・

「友情」や「愛情」も然りである・・・  とてつもなく非合理だ

だからまずこれらを抹殺して「生きることの究極目的」を引き続き考え続けようとする

・・・そしてだからこそ、哲学的な舞台に場を移し、「これは永遠の謎だ」とか言い始める

   「何て難しい問いだ!、まだまだ解答には永遠の時間が必要だ!」ということだ

でも私たち人間は何でこれ程までにマインドに埋没しきってしまったというのだろうか?
 「生の目的」とは「どこか?」に答えがあるのでは無く「生の営みそのもの」が目的なのだ

だからマインドが考えれば考えるほど、問えば問うほど、 
          「生」という「いまここにある目前の解答」から遠のいてしまうのだ

考えることは単なる引き延ばしにすぎない。

カルキ・バガヴァン
OSHO

あなたが瞑想的になると、肉体は今のあなたには
想像もつかないほど敏感になる。
私たちは決して正確には聞いていないし、正確には見ていない・・
中途半端だ。
あなたは庭を通る。
見ているようだが、ぼんやり眺めているだけで、見てはいない。
眼が鈍感になっている。
あなたが眼と闘ってきたからだ。
肉体が鈍感になっている。あなたが肉体と闘ってきたからだ。
文化全体が肉体を敵にまわしている。
この文化のすべてがだ・・東洋の文化であろうが西洋の文化であろうが違いはない。
この惑星の上で発展してきた文化は、ある意味で病んでいる。
それは肉体を敵にまわしている。
だが、肉体は大いなる神秘だ。
肉体を敵にまわすことは、宇宙に敵対することだと言ってもよい。
肉体は小宇宙だ。
宇宙との絆、宇宙への橋、宇宙に到達するための道具は肉体を通してもたらされる。
肉体は、まさに途上にある駅だ。
だから、肉体と闘ってはいけない。
どれが肉体の記憶で、どれがマインドの記憶であるかを常にはっきりと識別しなさい。
空腹は肉体の記憶であり、知ることができる。
だが、マインドにも独自の記憶がある。
それは実存的なものではない。
実のところ、それには生存に関わる価値がない。
肉体の記憶には生存に関わる価値がある。
そこが二つの記憶の基本的な違いだ。
肉体の記憶を否定し、それと闘えば、生き延びることができない。
だが、心理的な記憶には、実際には生死に関わる価値がない。
それらはたんなる堆積物、廃棄物・・溜まってきたら捨てねばならないもの、
持っていれば重荷になるだけだから、捨てる必要があるものだ。
だが、こういったマインドの記憶もまた古く、歳を経ている。
あなたが腹を立てるときには、常に二つの可能性がある。
それは肉体の記憶かもしれないし、マインドの記憶かもしれない。
肉体の記憶とマインドの記憶のあいだに一定の区別を設けなければならない。
あなたの怒りに生存に関わる価値があり、
それなしでは生き延びることができないとしたら、それは肉体の働きだ。
だが、あなたの怒りに生死を決する価値がなければ、
それはたんなるマインドの習性、マインドの機械的反復にすぎない。
そういう場合はマインドの記憶だ。
何度も何度も腹を立ててきたので、それがあなたの条件づけになってしまっている。
誰かがあなたを、あなたのボタンを押すたびに、あなたはまた腹を立てる。
ちょっと、それに気づいてごらん。
心理的な怒りや習慣的な怒りを一度も起こしたことのない人・・
そういう人の肉体的な怒りには独自の美しさがある。
それは決して醜くない。
それはその人が死んでいるのではなく生きているという証にすぎない。
習慣的に腹を立てれば立てるほど、肉体的な怒りを起こせなくなる。
そうなったら、あなたの怒りは醜いだけだ。
それから得られるものは何もない。
あなたと他人をかき乱してゆくだけだ。
別の角度からそれを理解することもできる。
例えば、セックス。
セックスは肉体の記憶でもある。
その場合には生存に関わる価値がある。
だが、習慣から生まれた精神的、知的なセックスにすぎない場合もある。
そのときには生存に関わる価値はない。
たんなる習慣的なパターンに陥ってしまったら、セックスは醜いものになる。
そこには愛もなければ、美しさもない。
音楽もなければ、より深い感応もない。
セックスが知的なものになればなるほど、肉体はいっそうそのなかに参与しにくくなる。
セックスについて考えれば考えるほど、セックスの真の姿、その最も深い神秘はわからなくなる。
マインドはセックスについて考えつづけ、肉体はそれに従わなければならなくなる。
いつであれ肉体がマインドに従うとき、そこには生命がない。
肉体は鈍重なおもりのようにただ引きずりまわされる。
何に対しても・・セックス、怒り、貪欲、何であれ・・
そこに生存に関わる価値があるかどうかを常に識別するがいい。
そこに生存に関わる価値があるなら、戦わないことだ。
それがたんなる精神的な習慣にすぎなければ、醒めているがいい。
私たちの過去のあらゆる行為からなるこの知的な記憶は、条件づけられたものになっている。
あなたは延々とそれをくり返し、まるで機械のように行為する。
これを意識していなさい!
怒りにマインドが介入しなければ・・
その怒りがある状況に対する全一な感応、身体全体の感応にすぎず、
そこに前からある知的な条件づけがなければ・・そのときには後悔がないことを知って驚くだろう。
あなたはその状況の下で、状況が求めるままに全一に行為した。
そのときには、後悔する必要はまったくない。
さらにもうひとつ・・後悔がないときには、心理的な蓄積は起こらない。
何ひとつあなたの習慣にはならない。
何も蓄積する必要はない。
マインドは、なぜ記憶を蓄積しなければならないのだろう?
それは、ある状況のもとで全一に行為できるかどうか自信がないからだ。
マインドは準備する。
マインドは色々と下稽古をすませなければならない。
これこれの状況下で、うまくやれるかどうか自信がない。
マインドは、かつて起こったことがあるすべての状況を知っておかなければならない。
マインドはものごとを判別しなければならない。
特定の状況のもとでは何をやればいいのかプログラムを練っておかなければならない。
マインドが記憶を蓄積するのはそのためだ。
だが、蓄積すればするほど、あなたは全一に行為できなくなってゆく。
そして、全一に行為できなくなればなるほど、ますますマインドが必要になってくる。
だから、肉体で行為しなさい。
マインドで行為してはいけない。
私がこのことを・・
宗教的な人間が口にするとは思いもよらないようなことを言うと、奇妙に見えるだろう。
それでも私は言う。
「肉体から行為しなさい!」と。
そうすれば、その行為は測り知れないものとなり、その感応は全一になる。
マインドを介入させてはならない。
そうすれば、記憶はなくなる。
心理的な蓄積はなくなる。
後悔は起こらなくなる。
行為は完結する。
ものごとはこうなり、状況はこうなっていて、あなたは後に何も残さず、全一に行為した。
したがって、後悔しうる者はいない。
あなたはその行為になりきっていた。
そうしなければ、行為に加わらなかった半身が後で後悔する。
肉体は全一に行為することができる。
マインドは決して全一に行為することができない。
マインドはいつも分断されている。
マインドは二分法のなかで働く。
マインドの一部は腹を立てているが、
別の部分は同時に後悔するか、後悔する準備を始めている。
このこともマインドに留めておきなさい。
あなたの一部が別の部分と絶えず闘っているときには、
あなたはかならず肉体を通してではなくマインドを通して行為している。
肉体はいつも全一だ。
それはばらばらでは行為できない。