先日、ある女性と「プライド」ということでちょっとした論争があった

これを彼女は「馬鹿な男のプライドだ」といったのがキッカケだった

「いや、こんなのに〝プライド〟だなんていう言葉を使うのはおかしい」っとわたし
結局のところ彼女は素直に訂正してくれた

・・・・まさしくこの〝素直さ〟〝潔さ〟こそが、わたしが言うところの〝プライド〟である

桝添の
「やりっ放しで逃げる」という態度は「気位の高さ、驕慢、無責任さ」であって
「男の誇り」とは正反対だ

しかし「沽券へのこだわり」と、「誇り」とは、日常ではよく混同される
   ・・・で、あるがゆえに彼女も上記の様な表現をしたのだろう

人間の言葉というのは生き物で、
ひとりひとりの生きてきた過程の中で言葉は意味づけされる
だから、ある人物がどの様な定義で言葉を使っているかは、
そのままその人の「生き様」そのものを表現している

そういう意味では、ひとりひとり言葉の定義とは微妙に違っているものであり
わたしの「プライド」という言葉の定義に対するこだわりが絶対普遍のものだとは言わない

しかし、言葉の奥に秘められた響きには普遍的な意味合い・・・
・・・ヌーソロジー的に言えば「クオリア」と呼び得るものが秘められていると思う


三宅洋平氏の街頭演説が注目を浴びている・・・・

「---本当の保守ってのは、国家の暴走から、国を守る奴ら。
 じゃあ国って何だ?国体じゃない。皇家でもない。俺たちだよ。---」

結果論としては彼の言葉に賛成だ
しかし、かれは「国体」という言葉を分かっていて使っているのだろうか?

それとも、曖昧なまま、興味すら無いまま、
単なるアジテーションのために、この言葉を引っ張り出しているのでは無いだろうか?

かれはこうも言っている

「---創価学会の人すごいぜ、選挙のとき。
  100人でも300人でも電話するんだよ、友だちに。
  それでどうなる?200人くらいに嫌われちゃうんだよ
  『まーた電話かかってきた、あいつ選挙の時ばっかり』って。
  それでも、自分たちの思いを果たしてくれるのは公明党だって、
  信じて、何十年も何十年も そういうことくり返してきたんだよ。---」

「---日本会議だって一緒だよ。
  利権?利害?それも絡んでるかもしれない。
  だけど俺はいろいろ調べてみたら、あれは想いだよ。---」

 彼がここまで言うのなら、当然、〝国体とは何か?〟彼なりに理解しているハズだ
それを前提とするならば、彼の言葉に素直に賛同出来る

わたし自身、「国体」という言葉の意味を十分理解しているとは思わない
しかし「家紋」という言葉を手がかりに私なりに「国体」という言葉の真意を類推している

家紋というのは戦場において
「わたしはこの家紋に恥じないように正々堂々と闘う」
っという誓いの象徴なのだそうだ

まさしく「命がけの誇り」こそが「家紋」の意味するところであり
そういう視点で見てみると、平和を至上価値として疑わない現代の私たちにも
稲田朋美の「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」っという
言葉の根拠が垣間見えてこないだろうか?

これは武家だけのことでは無い
時代劇では無くても「暖簾を背負う」という言葉ぐらいは
現代でも時々聞ける台詞じゃ無いだろうか ?

つまり、士農工商、いずれの職業にせよ、私たち日本人のバックボーンにあるのは
「先祖代々からの信頼関係、誇り、名誉」である

その「お家制度」の頂点にあるのが「天皇陛下だ」となってくれば
阿南陸軍大臣が「ただただ国体護持を思って・・・」という言葉に
総理大臣が肯くやり取り
も見えてくる・・・・

私たちは、文化大革命で文化人、教養人を根絶やしにしてしまった中国人とは違う
例え自らの命の危機に遭ったにせよ、卑怯なことはしない、秩序は乱さない
火事場泥棒などと言う卑劣なことはしない・・・・

〝国体〟という言葉には、
「日本人が各人の命よりも大切な〝人間として生きる誇り〟」が込められていたのだ
そして「人間らしく死ぬことの〝祈り〟」が・・・・

このキーワードは、敗戦後意図的に教えられなくなってしまった
このキーワードがブラックボックスのままだと、「戦前の日本人の誇り」は見えてこない
「戦前の日本人は誰もが単なる天皇の個人崇拝に狂った戦争マニア」に見えてしまう
なぜ?
「国体が守られない」ぐらいなら「本土決戦の方がマシ」という発想が
常識的に行き渡っていたのか?・・・単に戦前教育が「狂気」だったからなのか?

三宅氏がいう「創価や日本会議の人達は凄いぜ」といい、
「彼らの〝想い〟」を本当にフォローしているならば、なぜちゃんと言わないのか?

「国としての誇り」・・・いや、「人間が人間であることの条件」を
戦前の日本人は「国体」という言葉に見いだしていた・・・

それがわからなければ、「日本会議はキチガイ、悪魔の集団だ!」というつばぜり合いで
この選挙は終わるだろう・・・  その結果は見るまでも無く明らかだ

でも、この「大義」が封印されている・・・
そして「日本会議」というのは、その「封印されていること」を悪用して
カルト的なエリート意識とその政治的勢力を養ってきた

このタブーとなってきた言葉の解明、そしてリファインこそが、
「日本会議の悪の理論」を公衆の面前でつまびらかにする唯一の可能性に思える

それが「出来ない」というのは、単に無知なのか?無関心なのか?
・・・あるいはそこに「彼ら自身にとっても都合の悪いこと」があるからなのか?
 ・・・勘ぐらざるを得ない

    「天皇陛下こそが憲法九条の発案者だった」

新しいミレニアムの幕開けの年に発見された、この驚くべき事実

なぜ、安倍シンパのみならず、アンチ安倍グループまで無視し続けるのか?

つまりは「右派」にとっても、「左派」にとっても都合が悪い話なのだ

明治維新の時のように天皇を「錦の御旗」に祭り上げたい安倍政権にとっても
天皇を戦犯として罵ってきたアンチ安倍派にとっても、〝実にマズい〟話だからだ

「幣原喜重郎が発案者だ」ならOK
しかし
「実は天皇陛下自らが・・・」っというのは、
天皇を悪魔教徒や世界的な陰謀の背後のラスボスだと糾弾したい人達にとっては
あまりにも問題の核心だからだ

このポイントを無視して、ワイルドでカッコよく、弁舌爽やかなレゲエミュージシャンが
、「僕たちが、皆それぞれ自分らしく生きられる政治を!」
と叫んで、果たして歴史は動くだろうか?  ・・・わたしははなはだ疑問だ

わたしには彼らが、
大樹の根も、幹も見ること無く、その実をもぎ取ろうとしているように見える