誰もが学校でも社会でも、そして家族からもよく尋ねられることとは
「何がしたいの?」「何になりたいの?」だ

・・・つまり何か、したいこと、何か、成りたいものがあることが大前提の質問だ

だれもがこの質問に直面させられたことがあると思うけど、
これは私が最も嫌いな質問のひとつで、・・・こう言うテーマで作文を書け
と学校で言われれば、わたしはよく白紙で提出したものだ

「何ものかにならなければならない」
「何かを成し遂げなければいけない」というのが、この世の中における最大の圧力に思う

「一番やりたいこと、一番好きなこととは何か?」
これも私に、常にジレンマを与え続けた質問だった・・・

「え?特にやりたいことは無いよ?」と答えても、大概相手はつまらなそうな顔をするし
答えた私も、実はこの我が儘な回答にさえ自分の妥協を感じてしまうのだ・・・

なぜなら、生きている以上、やりたい事なんて瞬間瞬間変わっていくものじゃないか?
だからこの答えを口にした瞬間、それは結果としてはウソになる・・・・

本当のところ
  「何を〝したい〟か?」という足し算で私に尋ねないで欲しい
   「何を〝したくない〟か?」という引き算で質問して欲しい

・・・であれば私は嘘をつかずに即答できる

          「ガマンをしたくない!」っと

ところが、あまたの・・・・
  「何がしたいか?」という質問(というか実際には詰問なのだが)を受けてきたが
    「何を〝したくない〟か?」という親切な質問にはまず出喰わした記憶が無い

わたしが、妥協として「やりたいことなんか何も無い」と答えても、
その真意は、「ただじっと岩のように静止していたい」という意味では無い

小便がしたければ小便に行きたいし、喰いたければ喰う
すこし気分転換にぶらりと散歩したければする・・・

  誰だって瞬間瞬間したいことが変わり。必ずしも終始一貫しているわけではない
   そして周囲への思いやりも大事ではあるが、無意味なガマンは誰だって苦痛だ
     バカバカしくナンセンスに思えるガマンはしたくない・・・・

       「気に掛かる」ことがあるなら何でもガマンせずにさっさと〝やる〟

  ・・・それが私にとっての〝無為〟という言葉の定義で、
    〝無為〟と〝自然で必要なありとあらゆる行為〟とは、

                       わたしにとってほぼ同義なのだ

   でもこんなこと、誰にとっても同じなのではないだろうか?・・・だから不思議に思う

東日本大震災の時は、
店に整然と長蛇の列をつくる被災者の姿に世界から称賛の声が上がったが、
反面、阪神大震災ではトイレをガマンして死亡した人が非常に多かったそうだ・・・

何故誰もが、〝無為~自然な行為〟を受け入れられないのだろうか?

     「あれがしたい」「これがしたい」と未来の自分を固定してしまったなら、
         その自分自身の解答、過去の自分に縛られてしまうじゃ無いか?

本当のところ、ADHDをもつ私にとっては
「何がしたいか?」「したくないか?」という質問自体が、微妙な暴力なのだ
   その暴力に対する最高の回答とは「沈黙」であり「白紙回答」だと思う

アインシュタインが言う「光速度不変の法則」とは
あらゆる物体が光速度に達する為にはすべての質量を失うことを意味する
なぜなら質量や体積が少しでもあると、それ以上の加速のためには
無限の力積(質量x速度)を必要としてしまうからだ

私たちが空気の中で空気の質量を感じないように
空間の最小単位と目されているヒッグス粒子と同等にならなければ
この私たちの住む空間では質量が発生してしまい、光速以下に
なってしまうと言うことかも知れない 

白紙回答とは「質量も体積も失う」こと、「何者でも無くなる」ことだ
だってあなたとは「それ」ではないか?

何かになれという〝暴力的で鈍感な質問〟に、今後人々がどう答えるのであれ、・・・

・・・誰もがどっちにせよ
  身近なことから、ひとつずつ、気になることから優先的にこなしていくしかないだろう・・・

だから、
本当は誰もが私と同じく「無為」からは逃れられない!
本当は誰もが「無為」を拒絶しているようで、実際は「無為」しか選べないのだ

そして・・・
だれもが「自分はこれこれをやってます」と思ってる・・・でも、そうじゃない

「自分がやっている」という錯覚は人が抱える最大の不幸だと思う
だれもが自分の目の前の気になることから淡々と、粛々とこなしている・・・

・・・それは時としてはエキサイトメントに見えたり、
   大きな成功に歓喜したり、大きな失敗に地団駄を踏んだり落胆したりするだろう

  でもそれら全ては、本当は誰も、「気になることから、ただ順番にこなしている」だけだ
   そして「なぜこれが気になったのか?」その真相は本人でさえ自覚も理解もしていない

                       でもそれは〝救い〟だと私は思っている

  肉体の中の生理現象も、外界の様々な出来事や義務も、すべては自然に起きている
  人工的な、不自然なさまざまな事象も、巨視的に見れば自然だ・・・

   だれもがその本当のカラクリも、宇宙的意味も、本当は知らずにやっている

                          しかしそれは〝救い〟だと私は思う

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Prem Sheel

23間前 ·



生にはふたつのバランスがある。
ひとつは「在ること Being」であり、もうひとつは、「すること Doing」だ。

「在ること」というのはあなたの本性だ。
それはいつもあなたとともにあるーー
なにかをして獲得するものではない。
それはもとからある。
あなたはそれだ。
あなたがそれを持っているわけではない。
あなたとそれとの間には距離さえない。
あなたはそれだ。
あなたこそがその「在ること」だ。

一方「すること」は達成するものだ。
あなたがなにをするにせよ、
その行為はもとからあるわけではない。
もしそれをすれば、それは起こる。
しなければ、それは起こらない。
もとからあるわけではないものはすべて、あなたの「在ること」ではない。

生きるためにあなたはいろんなことをする。
するとだんだんその活動が障壁となって、自分の「在ること」がわからなくなる。
活動はあなたの周辺部分でしかない。
あなたはそれによって生きるーー
それなしには生きられない。
でもそれはたんなる周辺部分だ。
あなたではない。
それは中心ではない。
あなたの持っているものは、
すべて行為の所有だ。
「持つこと」は「すること」の結果だ。

そして中心は、
あなたの「すること」と「持つこと」によって取り込まれている。
これらの技法に進む前に注意すべきことがある。

ひとつ。
あなたが何を持っていようと、それはあなたの「在ること」ではない。
また、あなたが何をしようと、あなたに何ができようと、
それはあなたの「在ること」ではない。
あなたの「在ること」は、一切の「すること」に先行する。
あなたの「在ること」は、一切の所有、一切の「持つこと」に先行する。

ところがマインドはいつも「すること」と「持つこと」に巻き込まれてしまう。
マインドをを超えたところに、あるいはマインドの下に、あなたの「在ること」はある。

それではどうやってその中心を貫くのか?
それこそが宗教の探究してきたことだ。
それこそが、人間存在の根本的真実や究極的な核心に関心を持つ人々、
自分の「在ること」そのものに関心を持つ人々の、つねに探究してきたことだ。

Osho - The Book Of Secrets