私たちはいつも何かの〝達成〟に向けて急いでいる

すると目の前をモンシロチョウが飛んでいても足を止めることは無い

身内が交通事故に遭ったと聞いたらすっ飛んでいくかも知れないが
そんな非常事態でも無い限り、私たちの目の前を通る光景は常に流れ去っていく

「いまここにあるもの」とは常に
「いつかどこかに辿り着く為の通過点」であったり、「手段」に過ぎない・・・
              ・・・と、ついつい見なしてうつろに見送っている


「食べる」ならば「食べる」ことが究極の目的地だとは思わず
味わうこと無く腹に詰め込んでしまう

「蝶々を見る」とき、それは「他愛の無いこと」と無意識的に価値評価している

蝶は象徴学ではよく「魂」を示す

たとえばふいに目の前を通ったその一匹のモンシロチョウは
あなたのご先祖様とか、あなた自身の未来の意識が乗り物として使っていて
その先の曲がり角であなたが交通事故に遭う危険を防ごうとアピールしに
来ているのかも知れない・・・・

・・・もちろん愛する家族の交通事故も緊急事態だが、その知らせに慌てて
あなた自身が交通事故に遭うともっと大変では無いか?

わたしたちが瞬間瞬間目にしている光景に・・・・
・・・「大きい」とか「小さい」とか
   「良い」とか「悪い」とか「損」とか「得」とか・・・・  そんな判別は不可能なのだ

「生まれてきたこと」の最も避けがたい重要な意味とは
「次の瞬間、全てが終わるかも知れない」ということだ・・・・

常に今この瞬間が、「人生最後の瞬間」かもしれない

  ・・・達成すべき「いつかどこかの目的」の、
        その、「いつかどこか」の到来は
                       常に仮説に過ぎない

キャッシュ・・・間違いなく私たちが握りしめている〝現金〟とは、常に「いまここ」だけだ

  であるなら、常にいまここだけが「約束の地」なのだ

  それ以外の全ての「約束の地」は、運命によって反故にされるかも知れない
  その〝可能性〟だけで充分〝致命的〟であることをついつい忘れてしまう
        それを忘れて、「きっと明日があるさ」とわたしたちは眠りこける
 
 それが、「全てを手段と見なして価値付けする」わたしたちの病であり、悲劇だと思う

 バーガーショップが深夜に大混雑! 長蛇の列にも、人々が怒らなかった理由

ディヤン ムディトさんの写真

ディヤン ムディト  JOY
2015年5月29日 ·

私達は、ものを食べる、ということを、
完全に、機械的なプロセスにしてしまった。
人は、食べ物を身体に入れ、そして食卓を離れる。
それはもう、心理的なプロセスではない。
これでは、危険だ。
私達は、ものを食べ、水を飲み、呼吸をしている。
私達は、これらのすべてに、
感謝の気持ちを、持たなくてはならない。
生命すべてに、世界すべてに、全宇宙に、全自然に、
神聖なるものに対して、
感謝の気持ちがあって、しかるべきだ。
また一日、私は、生を受けました。
また一食、食べる物を戴きました。
また一日、私は、太陽を、咲きほころんでいる花を、
見ています。
私は、今日もまた、生きています。
この気持ち、この感謝の気持ちが、
人生のあらゆる側面に、なくてはならない。
そして、特に食事には、それがあって然るべきだ。
そうして初めて、人の食事は、正しい食事になる。

OSHO:The Inner Journey, より抜粋