昨日はこれ↓に出席のため、皇居の前まで行ってきた・・・・


私はここに別に「何の期待もせずに」行ったつもりだったが
出席者は皆、主催の藤田さんをはじめ、みな素晴らしい人だった

やはり「漫然と集まる」よりも、一応「スピリチュアルな・・・」とか「ワクワク・・・」とか
最低限のキーワード、つまり〝テーマ〟が定まった集まりじゃないと
「注目すべき人達との出会い」の〝命中率〟は落ちるものだ・・・

この席の中で私は、私の興味としてこれら出席者各人に「人生への期待はあるか?」
インタビューしてみた・・・

言い出しっぺの私は、まず「わたし自身は何の期待も持っていない」と語った

「この先、人類が至福千年の時代を向かえようが、 核戦争で絶滅しようが
私個人で左右出来ることではないし・・・」とまず自分自身の〝期待〟を表明した

それに対し、私以外の出席者で最も印象に残った回答が、主催者の藤田さんであった

「わたしは〝有る特定の信念を共有する仲間〟を作りたいのでは無い」
「集まってくる人達は皆、いろいろで、その個性の分かち合いをしたい」と言ったような
回答だった・・・

私は嬉しくなってヌーソロジーで仕込んできた「同質異体と異質同体」の話を紹介した

OSHOの言葉に「天国への道は天国」というのがあるが
昨日集まった人達は「ワクワクというキーワード自体にワクワクして来た・・・」のだった 

わたし自身も
「・・・何も期待していないとさっき言いつつ、でもこんなところに来てるわけだし・・・」
と苦笑した・・・・一同ニヤリ


    果たして「ワクワク」と「期待」とは同じなのだろうか?

・・・・昨日の集まりを解散した後も、ずっとその疑問が頭に残っていた

バシャールの十八番、「ワクワク~エキサイトメント」 ・・・それは何か?
                 この言葉の定義それ自体が結構難問である

「期待にワクワクする」こともあれば「ワクワクすることに期待する」こともあるので
ワクワクと期待とは同一視されやすいが、厳密には違うように思う

その会では、「ワクワクの正反対のもの」ということで、「それは恐怖だと思う」と
私の瞑想の中で出てきた言葉を皆さんにご披露してきた

 「こうであって欲しい」「ああであったらいいなあ」というのが〝期待〟だが
  そこには常に自分自身の欲望に基づいた〝憶測〟が介在していて
   イコール〝裏切られる危険性=リスクへの恐怖〟を背後に含んでいる

「期待」には、
シュレディンガーの猫のように「オモテか?ウラか?」という可能性が同居している・・・
しかし「未知の未来」がオモテであれ、ウラであれ、実はどちらも「想定範囲内」なのが
「期待」のカテゴリーだと思う・・・・期待の「毒ガス室」を開けてみたら、そこにあるのは
          「生きている猫」か?「死んでしまった猫」か?のどちらかで、
                  そこからドラゴンが飛び出すことは無い

サプライズの要素無しに「ワクワク」が有り得るか?と言えばもちろん「ノー」だろう
「想定し得ない純然たる未知の事態」に対して
ネガティブに(閉じて)構えれば「(リスクに対する)恐怖」であり、
ポジティブに(開いて)構えなければ「(スリルに対する)ワクワク」と言えるかも知れない

セレンディピティー(思わぬ僥倖、「わらしべ長者」現象)とは
この「恐怖」を「ワクワク」へと転換することではじめて起こり得る・・・

それは
「オモテか?ウラか?」という「過去に基づいた未来への不安と期待の揺らぎ」・・・
         ・・・その〝感情の暗雲を突き抜けた〟成層圏の飛行のようだ

  ひとは何の期待ももたずに、それでも「歩いて行ける」だろうか?
  ひとは何の夢も理想も目的も信念ももたず、
  それらから自由で居られるだろうか?

・・・それらからの自由と解放とはイコール〝絶望~虚無感〟ではないだろうか?

   わたしたちは「明日を一切期待せず」「今日を生きていけるのだろうか?」

          ・・・・これが私がこの記事で問いたいところだ


質問:人生に目的を持つべきでしょうか? 投稿者 maneel-katal

日常は「小さな目的、動機」の細かい積み重ねで動いてゆく・・・
それは「仕事に出勤する」とか「おしっこにいきたい」とか「腹が減った」だとか
ごくごく事務的な必要性だったり、生理的な欲求だったりする・・・

行った先に、今日も職場があったり、トイレがあったり、行きつけの定食屋があるのは
「期待」と言う程のことではないと思う・・・

  行った先のトイレがたまたま故障していて使用禁止だったり
  行きつけの定食屋がたまたま臨時休業だからと行って
  別にそれがいちいち恐怖であったり、怒りといった感情を動かす程のことじゃない

・・・そんなことで落胆したり、怒り狂うヒマがあるならば、
   さっさと別のトイレを探すなり、他のお店を探すまでのことだ

人間ひとりの〝無限の欲望〟を充たすのには全地球の資源を使い果たしても足りないが
目の前の〝食欲〟〝睡眠欲〟・・・〝欲〟を充たすだけならどうということはないのだ

実は昨日の「お茶会」に出席する前、こんな投稿をフェイスブックで目にしていた
損得勘定で生きる人は怒らない・小林正観メッセージ176

つまり、「損得勘定」という即物的な、ごく自然な動機というのは
「いちいち〝一喜一憂する感情〟を掻き立てない」ということだ

でもここに
期待とか、理想とか、達成目標とか、信念大系のようなものが絡むとそうはいかない

・・・ここにバシャールが言うところの「ワクワク」と、
 私たちが期待の上で追求している「ワクワク」との重大な〝ずれ〟があるように思う


バシャール「究極の、無限の自己信頼」 投稿者 maneel-katal

※ 動画中9分20秒ごろより
  「エキサイトメントとは、跳んだり跳ねたりの気分の抑揚のことでは無く
      自分の内なる平和を感じる満足感が鍵となる感覚のことです」

私たちが「エキサイトメント」という言葉を聞くと、
一般的にそれは「スリルと興奮」、そして「歓喜の追求」のことだが、
どうもそれはバシャヤンが言う「エキサイトメント」のニュアンスとは違う気がする・・・

気が付いてみると、
私たちは「際限ない欲望の追求」を「ワクワクの追求」だと思って暴走している

この〝違い〟・・・・  この「エキサイトメント」という単語のひとり歩きは、
以下でゲラー氏が指摘する・・・
〝好きなこと〟〝(人に褒めて貰える)得意なこと〟との〝混同〟」で
                  巧みに説明されているように思うのだ・・・

そしてそれは、
そのまま「スピリチュアルとは何か?」という言葉の定義とも、深く関わっていると思う

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