変性意識・・・  意識が拡張している時にあって最大の問いかけはここだった

痛みを感じることに焦点を合わせるか?合わせないか?

意識が拡張している時は、当然肉体的、心理的な痛みも拡張して感じる
だから思わず「逃げ出したく」なる

しかしそれは、せっかくのチャンスなのだ
ここから日常的な感覚に戻った時、
「日常的感覚とは何か?」が分かる

日常こそが、ある意味では「異常な」状態なのだ
私たちは普段とても鈍感な状態にある
自分自身から逃げている

だってそうでないと「日常生活なんてやってらんない」からだ
私たちは普段敢えて、意識をスローダウンさせて鈍らせ
なるべく多くのことを「感じないようにして」生きている

それはある種の安心感、安定感は与えてくれるが
同時に溜まらなく・・・
退屈な、愚鈍な、逃避的な、腐った、習慣的な時間感覚だ

・・・この決着が着いた時

  「そうだ、自分自身の感覚に真摯に向き合おう」という結論に達した時

    落ち着いて自分自身と対話できるコツを掴めれば
    まぎれもないある種の確信が宿りはじめる・・・

  ・・・するともう、変性意識というのは「特殊な体験」ではなくなる
    「ドラッグ」も、「慰め」も、その他「スペシャルな体験」を求める渇望も、・・・なくなる

     玉葱の皮を剥き続ける様な
     「自分自身を剥き続ける」新鮮な旅が始まる
          ・・・あとは何も必要ないのだ

それは、決して「傲慢、エゴイズムに陥った」のではない・・・
  「他人の有意義な意見」やら「すごい情報」「成功法則」は、
                  ・・・あくまでも「二の次」だ、「周辺」だ

そう突っぱねられて不満な教師、弁士達、寂しくなるグル達が
「確固たる自分自身を持っているひと」を指さして「エゴイストだ!」と糾弾しているだけだ

     「他人や、しいては社会に影響を与え続けたい
                ・・・重要人物であり続けたい」

・・・これこそがエゴイズムの何たるかなので、
    こういう「教師、弁士達、グル達」の主張とは「壮大なブーメラン」なわけだ・・・
「覚者は確固不動です」

  クリシュナムルティー
「自分の中心に入ったならば、他のことなどどうでも良くなる」

   OSHO

わたしたちは自分自身の責任において、失敗を踏みしめる準備が出来る
間違いの痛みを、自分自身の尊厳に置いて甘受することが出来る様になる
「失敗しない方法」を教えてくれるという教師達の助言は「単なる助言」に留まる・・・

   そうなると、それはもっとも大切な「自由の味わい」なのだと分かるはずだ

角屋 昌紀

OSHO SAID,

奇妙で矛盾したことに聞こえるだろうが---

平和は、
「痛みのただなかに見いだされるもの」であって、
       それはけっして・・・、

  「ネガティブなもの、痛みをもたらすもの」
         と見なされたなにか

          ・・・それらと闘ったり、
             それから逃げたりすることで               見いだされるものではない。 心理的な痛みとの交わりによってのみ、
   それからの解放と超越の扉が開く。     --心理的な痛みとの交わり-- が唯一の手段だ。 すべての痛みを受け容れなければならない。   --それとの対話-- が必要だ。

           それは「あなた」だ。           それを超えるにはほかの道はない。
           それを吸収するのが唯一の道だ。     非難も理由づけもなしにただそこにいれば、 その無選択の気づきのなかで、すべての心理的な痛みは消える。 早朝の太陽に照らされて水滴が蒸発するように。 あとに残るのは純粋な空間、汚れなき空間だけだ。 それこそが「ひとつのもの」、それこそが「タオ」だ。    Unio Mystica Vol.1 #8