トランプやその先祖であるタロットカードの数札の各「5番」は
生命の樹の第五のセフィロト「峻厳のゲブラー(対応天体:火星)」に対応している

参照記事:
2015年10月04日 究極の旅・・・「十牛図 "THE SERACH"」
2016年03月24日 生命の樹と十牛図

十牛図

これは禅の十牛図では「得牛」であり、人生の様々なものを〝得る〟上での奮闘努力、
また、〝得る〟の反対である〝(敵の)排除〟もまたゲブラーのテリトリーだ 

その下のセフィロト「ホド(対応天体:水星)」はその「得たいもの、排除したいもの」の識別をする
・・・すべての「闘い」は識別心とその元となる価値観から来る

 価値比較というもの、識別心というものがなくて、勝利、敗北、成功、失敗の判定は、ありえない

この「肉眼で見える世界」には、常にこの〝罠〟が広がっている
この「五感で知覚するすべて」は、あなたを焦り、不安、孤独、恐怖に駆り立てる

・・・・であるならば私たちは一体何を信じたら良いのだろうか???
   私たち人間は常に、「価値観」そのものを様々な形で探しあぐねてきた

   そして「神」や「仏」への修行や瞑想、祈りによって、信仰や悟りを「得ようと」奮闘してきた

 マン・カインドが欲し得る最大の〝牛〟とは、カネでも権力でも名誉でも無く
 それらすべてのベースとなる〝絶対的価値観〟であり、これが「哲学」や「宗教」の課題だろう

             本当に賢い人ならば、
             最終的に求めるべき価値とは、
            〝絶対的価値観〟そのものであるはずだ

ところが、ここで〝得牛〟~ゲブラーのあらゆるメソッド、テクニックは行き詰まる

なぜなら、従来の全ての〝得牛〟つまり探求、獲得、闘争のすべては、
そのベースとなる価値判断基準があったが故に、
それに照合すれば、「次の一手」は確定出来るが
最後に探す「大きな獲物」とは、その「判断基準」そのものだからだ・・・・

・・・・つまり従来のように機械的、自動的にメソッドやテクニックが決定出来ないのだ!
   だれもがここで「自分の靴紐をひっぱっては、空に飛べない」というディレンマに陥る

だからそのヒントこそが「牧牛」に描かれている・・・
  つまり「あらゆる価値判断そのものが〝エゴ〟であり・・・」
   その「自分自身(古いテクニック、執着、獲得欲、価値観)」からの自由こそが
      「無限に広がる究極の価値の大空」へとあなたを舞い上がらせる・・・

        これが「すべての価値観からの自由」という「究極の価値」


つまり、「牛を〝得よう〟としない~牛の〝あるがまま〟自然を許す、解放する」ことだ

         牛と「信頼の絆」で結ばれた時、もう「鞭も手綱も」不要となる

   そうなったらもう、  「得牛~ゲブラーの奮闘、格闘」の段階は終わる

  そこには「どちらでもいい」という全托の境地が必要だ

そもそも、「絶対的価値の探求」において
      もっとも大切なファーストステップとは
    「わたしはいまだ〝絶対的価値判断に目覚めていない〟」
                            ・・・という自覚なのだ

    ・・・この最重要なファーストステップ
       ~〝五感に囚われた傲慢さの自覚〟~こそが、
            実はファイナルステップ「・・・いまここ」でもある

       なぜなら「何が究極的に〝良い〟ことなのか?判っていない」ならば
        ・・・あなたはそもそも「判断可能」だろうか?「識別可能」なのだろうか?

     この時わたしたちがいまだに
   五感に基づいた判断が〝正しい〟と主張するならば
  それは即ち、わたしたちは「絶対的な判断力を得ていない」という自覚に
         〝まだ完全には達していない〟 ・・・何よりの証拠なのだ !!

    この〝自己矛盾〟〝混乱〟〝葛藤〟の根本原因への目覚めこそが、
         私たちが〝牧牛〟への新たなステージへの参入を可能にする

自分の目で見て、自分の耳で聞いたことは
「直面した事実」として、まず疑うことは難しい・・・

自分がひょっとしたら「開きメクラなのかも知れない」・・・そう疑うことには実にガッツが要る
まさしく明瞭に見えていること、まさしく明確に〝判った〟と思うこと・・・
そのこと自体が「真実を覆い隠している牢獄」なのかも知れない・・・

・・・その「徹底的な疑い」をもたらしたという点で、映画「マトリックス」とは意識革命だった



OSHOも、クリシュナムルティーも、「私は何も信じない」とハッキリ言明している

       「この世で断言出来ることなど何も無い」ということは、
         「すべての信念体系は砂上の楼閣」だと言うことに等しい

でも、すべての認識が「砂上の楼閣」「トリック」かもしれないという可能性を疑った時、
不思議なことにわたしたちは、ある種の自由へと解放される

なぜならば
  「これが現実だ」という、重く鈍い鉄の鎖・・・、
    ・・・「絶対的な尺度」から抜け出せるからだ

         ・・・それは第三者的には、極めて〝狂気〟の様なのだけれど

存在する全てには、
    「どうしてそれがそこに存在するのか?」という絶対的な根拠など無い
               だから、「確かな〝価値〟」もまた証明出来ない

・・・このことはあなたという存在にも、わたしという存在にも同じように言える

   わたしやあなたがなぜこの宇宙に今、存在しているのか?

   ・・・そもそも確かに〝存在している〟のか?

      それを自分自身に証明する手立ては無い・・・



   わたしたちが「水槽の中のグッピー」ではないと、
   一体どうやって自分自身に証明出来るだろうか?

私たちは自分に
           「存在する価値が〝ある〟」

        とは、どうあがいても自分自身に証明出来ないが、
               でもそれは同時に

           「存在する価値などない」

        という証明も叉、不可能であることを意味している

 私が言っていることは「単なる詭弁」だろうか?
あなたやわたしは「いわゆる厳しく世知辛い現実」をよく知っており

        「だから、自分はガラクタだ、価値が無いのだ」

              と断言したいかも知れない・・・

もちろんそれは辛い結論だけれど、
もしそれが「断言可能」ならば、あなたは迷わずあっさり自殺可能だろう・・・

  しかし、断言出来ない・・・

「その断言」すら可能なら、ひとは苦しく辛かった人生に「スッパリと見切りを」付けられる
事実自殺してしまった人というのは、その証拠が「もう充分だ」と納得してしまったのだろう
しかし実際は「めめしいく未練がましい」からひとは自殺出来ないのではない

         ・・・そんな断定は「傲慢」だと、どこかでだれもが知っているからだ

自殺というのはある意味では人間らしい知的な行為だが、本質的に傲慢なのだ
だれもが「傲慢」を犯し、押し切ってまで、「自殺したい」とは思わないはずだ

しかしそこで残り続ける、小さくも無限に巨大な「生の可能性」は、
あなたを圧倒する程の恐怖、痛み、苦しみ、孤独も味合わせることになるだろうが・・・


「神の存在」であれ、なんであれ「根源的な断言」をするのは個人の勝手だが
それは自らが「神以上の存在」であると宣言している様なものだ・・・・
つまり、「自分自身が知覚している物事の〝絶対視〟」である

     ・・・実は私たちは「このとてつもない傲慢」を日常的に踏んでいる
     ・・・それがこの記事で私がもっとも自分自身に書き残したかったことだ

そしてもし、
存在する根底的価値が「ある」とか「無い」とか、証明可能な理由が存在したならば
まさしくその理由に私たちの全存在もまた依存していることを意味する
「その理由」が消滅すると同時に、「私たち」も叉、消滅を余儀なくされるだろう・・・

あらゆる「根拠探し」そのものが、
「根拠が無ければ存在出来ない」という憶測を前提としている・・・

   「わたしは何も信じない」という言明は、そこまでも自動的に指摘していると思う

だから「無知の知」とは
決して私たちを追い詰めるものなのでは無く、わたしたちを「理由探し」から解放する