あなたが花を見る時、なぜそこに〝観察者である自分〟を想定するのですか?

クリシュナムルティー 

なぜかといえば、人間は「欲張り」だからだ

「観察」し終わった後、つぎは「何をしようかな~~」っと迷い、選択する(選択出来る)・・・

         「選択権をもっている自分」があることが〝自由〟だと思っている

        それが人間だからだ・・・彼には選択者という「欲望のセンター」が必要だ


大昔、人間は概念でものを考えられるようになった時、まっ先に思いついたものが
「自分達のクリエイター、創造主である〝神〟」ではないだろうか?

なぜなら人間には「自分で自分を作った」という自覚が無いからだ
でも産んでくれた親も叉、自分とたいして構造は変わらず、だから遡ればそれは〝神〟だった

「死からの逃亡」その本能は全ての生物が持っている
しかし、はじめに「わたし」という概念を持って世界との分離した感覚を持った時
死もまたハッキリした恐怖の対象として意識されたに違いない

「絶対的な恐怖の対象」として
「死」という現象がわたしたちの遠い先祖のマインドをかきむしった時、その拒絶感として
「神」や「悪魔」がイメージされた(発明された)のだと思う

死という現象をハッキリと意識しはじめたとき、その何重もの「防御装置」が必要だった
「死後の世界」「魂」そして宇宙の不思議な営み、規則性を司る法の守護者、創造者・・・「神」

そのときから、自分達の外側に絶対的な保護者を私たちは渇望し始めたに違いない

もしそれが「発明」ではなく「発見」であったなら?
であれば、わたしたちはとっくにエデンの園に帰り着いているはずである

残念ながら?それは「発見」ではなかった

その後、「神の仕業」と思われていたものの多くが「科学的な発見」によって
           その神の特権は次々と教会から奪われていった

・・・にもかかわらず、わたしたち人類の「絶対的守護者への渇望」は
          「創造神」というアイディアを捨てきれないで居る

ある意味ではそれも〝あり〟なのかもしれない

なぜならその〝神〟の概念が自分自身の意識と合致して「神は内にあるもの」となるからだ

  (OSHOを毒殺した後の欧米のスピリチュアリズムは、
   キリスト教的世界観と折り合いを付ける為に、
    神という言葉を捨てずに、その〝方向転換〟を計っているようだ)

あなたという「この宇宙の意識者」が存在しない宇宙全体が、あなたにとっては「抜け殻」だろう
あなたが死んだ時、その肉体は人々にとっては「もぬけの殻」なのと同じように・・・

しかし、「サムシング・グレート」を外側に探している間は、
「神は内にある」と百万遍唱えても意味は無い

私たちは今度は、「神は内にある」と言葉では唱えつつ
、「でもやっぱ外にも凄いのが・・・」っと欲張り続けるからだ

すると分裂が起きる、
それは「他者も神なのだから、他者の尊重・・・」というのとは全く異質の話だ

100%の自己責任に目覚めたものだけが
100%の自己尊重に目覚める
そして
100%の自己尊重に目覚めたものだけが
100%、他者を尊重するとは何か?も理解出来る

ここには「過失の割合」などなく、双方が100%なのだ

私たちは社会的な役割分担、分業化をすすめてきたが
それは責任のなすりつけあいのためでは無く
自分に与えられた課題に専念し、他者と信頼し合うためだ

外に優れた存在がいるか?いないか?は関係ないのだ
なぜならば、〝優れた存在〟(神、天使、精霊、ET・・・)とは、
それなりに自分の宇宙的な役割に専念しているはずだからだ・・・

だから、「全知全能なる神」が例えいたとしても、
わたしたち人間一人一人も、60兆の自分の細胞の泣き言を聞いていられないのと同じで
〝彼〟は彼なりに〝忙しい〟はずなのだ

わたしたちはどうしても「他者との関係性」で自分自身を推し量ろうとする長い長い歴史的習慣が
遺伝子のレベルにまで染みこんでしまっている・・・  これが哺乳類の虚弱性だ

だから 自らが自らの神になる以外の選択は考えない方が、〝お得〟なのだ・・・
その〝自己の神性〟を他者にまで主張しようとすると、世界の独裁者になるしか無いのだが
 

ゾウが何故「お鼻が長いのか?」 キリンが何故「首が長いのか?」

それは「あの枝の木の実を食べたかった」からだ
そして一生懸命背伸びして、さらに鼻を伸ばしたり首を伸ばした・・・
・・・神に「脚立」や「高枝切りばさみ」を注文したのでは無く、自分で自分を自然に変えていった

 ではなぜ「そういう高い木に実を付ける環境にゾウやキリンの祖先が居たのか?」

  ・・・しかしこういう答えにいちいち「神」を引っ張り出されたら「神」も迷惑だろう
   この宇宙に存在する全ては、ただ、自分のビジネスに専念すれば良いだけだ

それぞれの個体生命に「こうしたい」「ああなったらいいな」という欲がある
そして意思があり、知性があり、工夫する・・・  ただそれだけのことなのではないだろうか?

人間だけが「欲」をずぅぅーーーーっと無限の先まで延長させて考える「欲望」をもっている
それは多分「自意識=死への無限の恐怖感」と、「全知全能の神=宗教」との分裂から生じた、
そしてその「寄る辺なき自己」が「圧倒的な神」とのギャップを埋めるために〝科学〟がうまれた

この自意識が持ち出す「際限ない責任転嫁」のために、
 いちいち外側に
  「唯一絶対的存在者」とか「意思者」「デザイナー」「コーディネーター」を
           引っ張り出すのはもう止めるべきでは無いだろうか?

世界で一番貧しい大統領のお話


    「花を見るあなた」と「ハナクソをほじるあなた」は同時に存在出来ない

そこに〝一貫して居座り続けるわたし〟を想定することが、人間の欲望なのだ
〝万能の神〟もまたしかり・・・