自分の脳みそを中心に世界を認識しようとすると、
   そこには「男性原理的・不可知論」が待っている

つまり、

  「世の中にはあんな観点もあり、こんな観点もある」 

  「それを相対的な存在に過ぎないおのれの1個の脳みそ(観点)で
       〝真実はコレだ!〟なんて決めつけられるわけない・・・」 

人間型ゲシュタルト

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 世界は無限に広がっており、つまり無限の観点がある、そしてどの観点にも「光」がある
これはこれで「絶対に動かしがたい事実」に見える・・・

これが、「アイン・ソフ=無限」 「アイン・ソフ・アウル(あり得る)=無限光」だ

で、・・・ここに「位置の交換」を持ち込んでみる

つまり、「Who am  I?」という究極の問いを
「私は脳みそ」という観点では無く
「私とはあらゆる定義が不能な存在」だという、
いきなり結論「アイン:無」からスタートしてみる

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アンマニフェスト

するとここで自分の脳みそを超えた「女性原理的・不可知論」が浮上してくる

「男性原理的・不可知論」とは、
  基本的にあらゆる信念体系に染まることへの〝拒絶〟として表現されるが・・・、

「女性原理的・不可知論」とは、
  その正反対に他者のあらゆる信念体系への〝受容〟としてあらわれるのだ・・・

この時、
「自分の脳みそ」というのは「無限に沢山ある観点のひとつに過ぎない」という
率直な謙虚さであることは変わらないが、だからといって「男性原理的・不可知論」の
様に世界に対して孤立しない・・・
  「そう?そういう見方もあるのね?」という母性的な
   柔らかい他者への抱擁的な柔軟性があらわれてくるのだ

変換人型ゲシュタルト



「男性原理的・不可知論」のままだと、ジブンという中心の観点を
「何ものにも犯されない聖域として守り通さなければいけない」という
   防衛性が必要なのだ

  ・・・なにしろ、世界の中で「ジブンという脳みそはたったひとつだけ」だからだ

木枯らしの吹く孤高の「奥の細道」を歩く「彼」の姿は、求道者としての最終形態だろう
          ・・・誰にも同意出来ず、なにものにも妥協出来ず、所属出来ない

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ところが「女性原理的・不可知論」の場合は
「ジブンという脳みそ」は個人的肉体体験の単なる〝ポート:通信通路〟に
     過ぎないために、ここを過度に〝死守〟する必要が無くなるのだ

むしろ、 この五感ポートを充分に生かして
     沢山の他の観点と触れ合い、受け入れて、
     より完全な「観球」であろうとする


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つまり、「女性原理的・不可知論」に辿り着くと「男性原理的・不可知論」も自動的に生きてくる

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「男性原理的・不可知論」だけだと、アンマニフェストの「無限世界」とは、
「目指す先」として設定され、実際のところ「永遠に辿り着けない理想郷」で
  終わってしまう・・・

    ・・・すべての断定を拒んだ「認識の孤島」として運命付けられてしまう

ところが「女性原理的・不可知論」は
そのスタートラインは「無~無限であること」で始まる、
      いきなり「ゴール」から始まることになる・・・

「奥の細道」を延々と歩き続けてきたハーミットが、
突如「古池に飛び込む蛙」になるのだ・・・・



「世界即吾」というのを体感体得する・・・全知全能?だなんて
「いやいや・・・ そんなのムリゲーだよね~」ということではなく、
またそんな必要性もない・・・

  ただ、その観点・・・つまり〝球体の面としての集合点〟を
         ・・・実際に試してみれば良いだけなのだ

・・・なにも「幽体離脱」とかしなくてもいい 「神」「超人」にならなくてもいい
                単に「そういうものの見方」を試してみるだけだ

確かに・・・
  「全知全能の視点で見てご覧なさい・・・」それはムリゲーだろう

その逆だ・・・
  「ぼく~は何にも~知らないけれど~」という
    フロ上がりの様な呑気なバックグラウンドで世界を観るのだ・・・

なぜこんな「カンタン」なことがいままで不可能に見えたのか?と言えば
「男性原理的・不可知論」の立場から見れば、
「世界観が固定している視野狭窄な人達」が傲慢に見えるからである
       「そういうひとたちと妥協するわけにはいかない」という・・・
                〝頑なになりたくないという頑なさ〟が
                 「男性原理的・不可知論」には残り続けるのだ

なおかつ、
  「自分自身は全知全能ではあり得ない」という拒絶感(遠慮?)が
   「女性原理的・不可知論」の「観球」の不可能性を誇張させてしまうのだ
なぜここまでしつこく〝~的・不可知論〟と付加して記述きたのか?
その理由はここにある

つまり「不可知を自覚している」とはソクラテスの言う「無知の自覚」なのであり
この自覚のためにまったく〝全知全能〟である必要は無いからだ!

それははじめ「観点」という実に心細い「知覚の孤島」としてはじまるが
 その〝無条件さ〟ゆえにこの〝点〟は長さや面積や体積を持つことも出来る

あなたは「自分の脳みそ」という「一点のアイデンティティー」から
            今すぐ飛翔することが可能 なのだ

・・・簡単に言えば〝無〟であることとは変化自在であることなのだから
       あなたはいますぐ「わたしは〝無〟です!」と宣言出来る

      その為の神秘体験も学科試験も、実地テストも要らない
  「知る」ことではなく「知らない」ことが自由なのだから・・・・
          (by クリシュナムルティー)

          〝無条件さ〟そのものが〝無〟であることなのだ
   たったひとつの条件とは「私は知り得ない」ことに気が付いているだけだ


宗教観、政治観、金銭感覚・・・・
確かに多くの人達が自分の観点(こころの殻)にしがみついている・・・

「それ(イデオロギー的対立)ゆえに地球が滅び掛かっている」
といっても決しておおげさではない

「考え方が違う人をみんな認めなくなってきた」(岩井俊二監督)

でもそれはそれで、「人々の成長にはまだ必要なプロセスなのだ」と赦せるかどうか?

  ・・・そこに「カエルが古池に飛び込めるか?」のすべてがかかってくる

〝無〟の「何ものにも染まらない」というピュアリティーを男性原理として世界を見渡すと

 「オレ達は知っている」とうぬぼれた〝自称賢者達〟が
 他者を罵倒して、あるいは手段として扱い、
皆殺しにしようとさえする姿には憤りを覚える・・・

  「オレ達は世界の危機的現状を判っているのだ」と、賢人会議を開いたり、
      デモ行進している人達のその暴力性、セクト主義の傲慢さに呆れる

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しかし〝無〟は反転すると〝無限のキャパシティー〟へと開花する
 ・・・それは女性原理だ

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本当の意味での「いまここ」とは、肉眼で見えるものだけのことではなく
むしろ目をつむって自分の胸にそっと手を置き、自問自答した中にあらわれてくる

それは瞬間を切り取って
「目に見えている現状=観点」で、
すべてを断定してしまうことではなく
母性的な〝間(ま)=広がり、ふくらみ〟によって、
心眼で、ものごとを許容的に見なければ、見えてこない真実もある

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孤高のケンシロウにもっとも必要なのはやはり慈母星の「ユリア」なのだ
北斗の拳で、南斗最後の将がユリアなのは何故ですか?リュウガが兄なのに、、.

     そこで〝無〟なる〝わたし〟は孤立すること無く、
       無限に多様な、色んな〝あなた〟と交わることが出来、
              そこに無限の光(理解力)が誕生するのだ


  ただしそこには〝無限の忍耐〟が要求されるのだけれど・・・
 ・・・でもそこに〝無限の謙虚さ〟さえあれば、どうということはない
    それは、「わたしは知り得ない存在である」という自覚があれば自然と得られる

         あなたは、一体何について、「完全に知っている」と言えるだろう?

 そしてあなたは気が付くだろう、

    もし、「全知全能なる神」がこの宇宙の中心にいるとしたならば

〝彼〟こそが
日本の天皇陛下と同じように「世界一不自由な存在」であることを・・・・

行く先々に
 〝未知〟が存在しない、驚きがない、発見がない事ほど、退屈な事があるだろうか?

行く先々が全て「予定通り」「スケジュールでギッシリ」
  「遊び(知らないこと)が無い」状態を・・・
                      ・・・私たちは想像してみるべきだ

・・・・「全知全能の神」
    「大宇宙の完璧な支配者、責任者、完成者、コーディネーター」とは
         まったく新規創造の余地がない、大宇宙の生け贄なのだ

新しく「知れば知る程」、人は「高慢なバカになる」
             ハトヤの「三段逆スライド方式」である

・・・その通り!  未知とは〝空白(ブランク)〟であり、
         これが大きいほど、人は自由になる

自由であることとは、「傲慢な人々の巻き添えを食って破滅する運命」さえも甘受し、
                    その未知のスリルをも楽しむことなのだ