あなたがもし「永遠の時間と無限の可能性」を得たなら、何をしたいだろうか?

わたしは20代のニート・引き籠もり状態だった時、
ずっと考えあぐねていたのは「自分は何をしたいのか?」であった

あくまでも私的な話なので、
そのことはこのブログの古い記事で何度か書いているけど
 誰に対しても普遍的に当てはまるとは限らないので、
 そもそもブログで公表することじゃないかも知れない

しかし、もしこれを読んでくれているあなたも
同じように悩んでいるならば参考になるかも知れない


結論から言うならば、この答えは瞬間瞬間に変わる

  ・・・ある瞬間は、「おしっこしたい」「おなかが空いた、何か食べたい」だろう

   ・・・叉ある瞬間は 「ピクニックに出かけたい」「そうだ、京都行こう」だろう

     だから、その問いとはある意味でずっと続く

わたしがどんな仕事も長続きせず、自分を責め、
自分の本当の望みを自問自答していた若かった頃、〝若さ〟とは可能性が溢れていた

  可能性とは「選択肢の多さ」でもあったがゆえ、53歳の今のオッサンの私には
  当時の私とは、実は「贅沢な悩み」を抱えていたのだと判る

当時の私が探していたのは
「おしっこしたい」「おなかが空いた、何か食べたい」という、即物的な答えじゃ無かった

もっと、恒久的な、耐用年数がある、普遍的な答えだった

         ・・・・そしてその答えとは「無為~なにもしたくない」だった

ところが「おしっこしたい」「おなかが空いた、何か食べたい」というのもまた〝無為〟だった
〝無為〟と〝行為〟とは表裏一体なのだ

つまり探していた〝答え〟はあまりにも目の前にあったから、若い私が遠くの地平線に
憧れの異国の地にある〝理想郷〟を探して目をこらしても見つからなかったのだ

だからこれは〝気付き〟だった

ではなぜこの〝気付き〟に留まれなかったのか?と言えば、
「やはり人生には長期的な理想が必要なのじゃ無いか?」という疑問があったからだ
    ・・・また「人生の選択肢の多さ」が、わたしを「迷いの世界」に連れ戻したのだ

   「永遠の時間と無限の可能性」・・・こう書くとまるで無限の選択肢があるように見える
                  いや、事実あるのだろう

                   しかし、「迷い」とは「贅沢な選択肢」から来る
                    そして「贅沢さ」とは「欲望」から来る

                    ひとは「欲」を充たすことは出来るが
                    「欲望」には際限が無い
                    それゆえに「葛藤」にも際限が無い


  「永遠の時間と無限の可能性」とは、人々を 「望~いつかどこか」へと彷徨わせもすれば
                      「欲~いまここ」へと寛がせもする

  「抱えきれないほどの贅沢さ」は、ひとを狂気にも貶めるし、静かな幸福にも充たしてくれる

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「人生の長期的展望」が必要なのは、「人生が〝有限だ〟」という前提で必要不可欠なのだ
タイムリミットとは、「選択の重要性」を強調し、人々に選択を強要する

人生が有限だと言うことになれば、人々は先を争い、奪い合い、狂気に駆られる

しかし
誰もが「抱えきれないほどの幸福」を好きなだけ得られると判ったなら「奪い合う」だろうか?

確かに瞬間瞬間の選択は、生きている以上常にあるだろう、瞬間瞬間・・・
しかし、もしそこに
「せっつく有限性、欠乏性」がないならば、全ての選択は優雅で、深刻さとは無縁だ

「一パック100円のタマゴ、タイムセール」の為にスーパーマッケットに駆けだしていくことで、
人生の無限の可能性を投げ出すのだとしたら、いささか「割が悪い選択」なのでは無いか?

「自分の本当にやりたいこと」を探しあぐねていた若い頃を
いま思い出すと面白いことに気が付く

なんとはなく「こんな風になってると良いなあ~」と憧れていたことが叶っているのだ

それほど遮二無二「そっち」に向かっていったわけでは無かった
でも誰かや何かとの運命的な出会いが、結局のところ「そっち」に向かわせてくれたのだ

結局のところ「長期計画」は私の場合は必要なかった
    わたしはそういう〝ガラ〟ではなかったのだろう
    きっと私は〝ガラにもない〟長期計画などを立てようとしたから苦しんでいたのだ

                 ・・・誰にでも当てはまる法則じゃ無いかも知れない
「行動と行為のデリケートな違い」

part 1:するということの病気

 はじめに、
 「行動」の本質と、そこに隠された傾向を理解しなくてはならない。
 そうでなければどんなリラクゼーションも不可能だ。

 いくらあなたがそうしたいと思っても、
 自分の行動の本質を観察し、よく見て、
 本当に理解したことがなければ、リラックスすることはできないだろう。
 というのも、行動というのは単純な現象ではないからだ。
 
 多くの人がリラックスしたいと思っていて、リラックスできないでいる。
 リラクゼーションは花が開くようなもの、それを強要することはできない。

 あなたはその現象全体を理解しなくてはならない。

 ――なぜあなたはそんなに行動的なのか?、
    それほどまでに行動でいっぱいになっているのか、
            それにとり憑かれているのか。
 
  二つの言葉を覚えておきなさ い。

 ひとつは「行為」、もうひとつは「行動」。
 行為は行動ではないし、行動は行為ではない。
        その性質はまったく正反対だ。
 
 行為というのは、
  状況がそれを必要とした時に、あなたはそれを行うる、対応するということ。
 
 行動というのは
  状況にかかわりなく、対応でもない。
  あなたは内側は、とても落ち着きがないので、
  その状況は行動のための単なる口実にすぎないのだ。
 
 行為は静かなマインドからやってくる。
  ――それは世のなかで、もっともビューティフルなものだ。

 行動は落ち着きのないマインドからやってくる。
   ――それはもっとも、見難い。
 
 もっと行為するようにしなさい、そして行動がひとりでに落ちていくに任せなさい。
 変容はやがてやって くる。それには時間がかかるし、適当な時期というのもある。

 しかし急ぐ必要もない。
 
 さてあなたはもう、リラクゼーションの意味するところが理解できるだろう。
 それは、あなたの中に行動への衝動がない、ということだ。

 リラクゼーションは、 死人のように横たわっていることではない。
 それに、死人のように横たわることなどできない、ただそのふりができるだけ。

 死人のように横たわるなんて、どう やってできる? 
 あなたは生きているのだ、ただそのふりができるだけだ。

 リラクゼーションは、あなたに行動への衝動がまったくない時にやってくる。
 エネル ギーは落ち着いていて、どこへ向かっても動いていない。
 
 ある状況が起こればあなたは対応する、ただそれだけだ。
 けれどもあなたは、行動するための口実を探しているのではない。
 あなたは自分自身に寛いでいる。リラクゼーションとは落ち着いていることだ。
 
 リラクゼーションとは身体だけのことではない、マインドだけのことではない。
                それはあなたの全存在に係わることだ。
 
part 2:リラクゼーションへの変容
 
 リラク ゼーションというのは、この瞬間で満ち足りていること、
 それ以上に何かを求めたり望んだりすることなどできないことだ。
 
 何も求めるものはない、すでに充分すぎる、これ以上望むことなどできない。
 するとエネルギーはどこへも動いていかず、穏やかな水のプールになる。
 自分自身のエネルギーの中で、あなたは溶け ていく。
 
 この瞬間がリラクゼーションだ。
 リラクゼーションは身体のものでもマインドのものでもない。
 リラクゼーションはトータルなものだ。
 
 それでブッダた ちは言い続ける、「無欲になりなさい」、と。

 というのも、
 もし欲望があったなら、
 あなたはリラックスできないということを彼等は知っているからだ。
 
 リラクゼーションとは姿勢ではない。
 リラクゼーションはあなたのエネルギー全体の変容だ。
 
 Osho, Tantra: The Supreme Understanding, #4 より抜粋