生物が雄と雌に別れる前、それは「親と子」という関係だった
嫌気性の細胞がミトコンドリアと結婚し、
酸素のある環境で生きながらえる能力と引き替えに
私たちの先祖は「不老不死」を失い、「老化」が始まった

  ・・・・わたしたち生命体に「時間」が意味を持ち始めた瞬間である

〝親〟とは老いた細胞として安全な位置に留まり、「ターミナル・ステーション」の役を担った

〝子〟とは新しい世代として新しい環境を求めて冒険をする役目を担った


この蜂や蟻の様な役割分担が、やがて「雄と雌」という形態に変化していったに違いない
すべての男性は「個~子」であり、冒険する少年だ
すべての女性は「全体性~母親」であり、少年のふる里だ

ふる里を遙かに離れて親元に帰ってこれない、客死する子供達もいるだろう・・・

  それでも、「死をも恐れぬ」勇気と、無鉄砲なまでの冒険心が〝子〟にはある
      それはともすれば暴力性というネガティビティーも帯びる

子供達の「帰る場所」を死守しようとする親~母親は、
  その保守的な役割故に、ともすれば無気力、無関心という自己防衛に陥る

わたしたちは肉体的な特性としては、通常どちらかを帯びる・・・   「男」か?「女」か?

  それは、大昔からの「親子~男女の役割分担」がサバイバルに有利だったからだ

   しかし、いま、「サバイバルに有利」である以上に、
   人間という種族は「子~個人」としての完成の時代に向かいはじめた・・・

  生命始まって以来の大昔からの「役割分担」が、いま、〝解除〟されつつある
   〝性別〟というのは、単なる役割分担に過ぎなかった・・・

 私たちはみな、  男も、女も〝子〟から〝個々〟へと変容する・・・
                  「ただいま」と叫んで
             「今ここ」  ・・・不老不死/無時間/ホームへと帰還するのだ

no title

Prem Sheel

質聞 「男はもっと男らしくならなければならない」
とあなたはおっしゃいました。 この男らしさとは何ですか?

osho
男らしさはふたつの方向をとることができる。 ちょうど女らしさもふたつの方向をとることができるように・・・。 男性的マインドは攻撃的に、暴力的に、破壊的になりうる。
だが、それは可能性のひとつにすぎない。
男性は
これまでそれを試みてきたし、 そのために人類はとても苦しんできた。 そして、男性たちがこの男らしさのネガティヴな局面を試みると、 女性たちは自然とネガティヴな女らしさへと入っていきはじめてしまう。
男たちといっしょにやっていくという、ただそれだけのために。
さもなければ、断絶が大きくなりすぎるからだ。 橋をかけることができなくなってしまう。
そして 女らしさがネガティヴだと、不活発、無気力、無関心になる。
だから、 ネガティヴな男性はネガティヴな女性にしか橋をかけることができない。
だが、ポジティヴな局面もある。
ネガティヴなだけというものはなにひとつない。 あらゆるネガティヴィティにはポジティヴな局面も備わっている。 どんな暗雲も裏では銀色に輝いているし、どんな夜にも夜明けがつづく。
ポジティヴな男らしさは進取の気象に富み、 創造性豊かで、冒険心にあふれている。 これらは同じ資質だが、異なった水準で動いている。
ネガティヴな男性的マインドは破壊的になり、 ポジティヴな男性的マインドは創造的になる。
破壊と創造は
ふたつのことがらではなく、 ひとつのエネルギーのふたつの局面だ。
同じエネルギーが攻撃にもなりうるし、 同じエネルギーが進取の気象にもなりうる。
攻撃が進取の気象に富むと、それには独自の美しさがある。
暴力が冒険になると、
暴力が探検に、新しいものへの、未知なるものへの探検になると・・・、
             ・・・それは途方もない利益をもたらす。
そして、女性の場合も同じだ。
不活発はネガティヴ、受け容れることはポジティヴだ。
   それらは両方とも似ているように見える。       とても類似しているように見える。
  不活発と受け容れることのちがいを見分けるには        ひじょうに深くまで見抜く目が必要だ。
受け容れることは 喜んで迎え入れること、              待っていることであり、
                そのなかには祈りがある。
  受け容れることは主人、   受け容れることは子宮だ。
不活発はただの鈍さ、死、絶望。 待つものはなにもない、期待するものはなにもない、             けっしてなにも起こりそうにない。
それは無気力へと落ち込むこと、 ある種の無関心へと落ちていくことだ。
     そして、無関心と無気力は毒だ。
だが、
無関心になるその同じものが執着のなさにもなりうるし、 そうなったら、それは全面的に異なった風味をもつことになる。
無関心は無執着のようにも見えるが、そうではない。 無関心とは、ただ興味がないということだ。 無執着は、興味がないということではない。 無執着は徹底した興味、途方もない興味だが、
それでも執着しない能力を備えている。
そこにある間は、その瞬間を楽しむがいい。 そして、その瞬間が消えはじめたら、 あらゆるものがかならず消えるのだから、 それを去っていかせるがいい。
それが無執着だ。

無気力はネガティヴな状態だ。 人はただそこにある泥の塊のようだ。 成長の可能性はない、活力の横溢はない、 花となって咲くことはない。
だが、
その同じエネルギーがプールに、 エネルギーの巨大なプールになりうる。
どこにも行こうとしていない、 なにもしていない、
だが、 エネルギーは蓄積し、蓄積し、蓄積しつづける。
そして、 科学者たちは、あるポイントで量的変化が 質的変化になると言っている。
100度の熱で水は蒸発する。 99度ではまだ蒸発していない。 99.9度でもまだ蒸発しない。 だが、あとわずか0.1度で 水は量子的跳躍をすることになる。
ポジティヴな女らしさは無気力のようなものではない。 それはエネルギーの途方もないプールに似ている。 そして、エネルギーが集まり、蓄積すると、 それは多くの質的変化を経る。
男性は、ほんとうに男らしくあるために、 冒険心に満ちていなければならない、 創造性に富んでいなければならない、
生において
できるかぎり多くの進取の気象を発揮できなければならない。
女性は、ほんとうに女であるために、 男性の背後のエネルギーのプールでなければならない。 冒険が最大限のエネルギーをもつことができるように。 冒険がなんらかのインスピレーションをもちうるには、 冒険がなんらかの詩をもちうるには、 冒険心に富んだ魂が女性のなかで
リラックスし、命を補給し、活力を取り戻すことができるには、 エネルギーが必要になる。
いっしょになり、ポジティヴに動いている男と女は、ひとつの全体だ。
そして、ほんとうのカップルは、
(ほんとうのカップルはめったにいないが・・・、)ひとつであり、 そのなかでポジティヴな意味で互いに相手とつながり合っている。
カップルの99パーセントはネガティヴな意味でつながっている。 世界にこれほど多くの惨めさがあるのはそのためだ。
もう一度繰り返そう。 男は男らしくなければならないし、 女は女らしくなければならないが、 それはポジティヴな意味においてだ。
そうなったら、いっしょにいることが瞑想だ。 そうなったら、いっしょにいることがまさに大いなる冒険だ。 そうなったら、いっしょにいることが毎日、
             新しい驚きをもたらしてくれる。
 そうなったら、生はこのふたつの対極の間のダンスだ。

そして、彼らは互いに助け合う、互いに育み合う。 男ひとりではそれほど遠くへは行けないだろう。 女ひとりでは、どんなダイナミックな動きの可能性もない ただのエネルギーのプールにすぎないだろう。
ふたりがいっしょだと、彼らは補い合う。
誰も相手より高くはない。 補い合うものはけっして高くも低くもない。補い合うものは平等だ。
男も女も
どちらかが高いということはない。 彼らは補い合う。

いっしょになって、彼らは全体をつくり、 いっしょになって、彼らは互いに分かれていてはありえない               神聖さを創造することができる。
だからこそ、
イエスや仏陀はクリシュナよりもちょっと豊かさに欠けて見えるし、 その理由は彼らが独りだからだ。
クリシュナのほうが全体的だ。
そのために、インドでは
クリシュナは完璧なアヴァタール、神の完璧な化身だと考えられている。
仏陀は不完全だと思われているのだ。 マハヴィーラも神の不完全な顕現であり、イエスもそうだ。 クリシュナにはなにか全体的なところがある。
そして、もうひとつ。 もしそれが男と女の外側での出会いということにすぎなかったら、 これほど重要なことにはならなかっただろう。
それはまた、男と女、
それぞれの存在における、奥深くでの出会いということでもある。 というのも、 男はそれぞれ内側では女でもあるし、 女はそれぞれ内側では男でもあるからだ。
相手との外側での出会いと融け合いは、 実は内側での出会いの準備を整えるためのレッスン、実験なのだ。
人はそれぞれ 男と女から生まれてくる。 あなたの半分はあなたの父親から来ていて、 あなたの半分はあなたの母親から来ている。 あなたは正反対の極の出会いなのだ。
現代の心理学、 とくにユング派の心理学は、
男性は男女両性の質をもっているし、女性もそうだという、 これを認めている、これに基づいている。
もしあなたの顕在意識が男性のそれであれば、 あなたの無意識は女性のそれだということになり、その逆もまた真実だ。
だが、内なる出会いをなんとか成し遂げるのは、初めのうちはむずかしい。 内なるものは目に見えないからだ。
まず最初に、あなたは目に見えるものでレッスンを学ばなければならない。 外側の女性と出会うがいい、 外側の男性と出会うがいい。
そうすれば、
この出会いとはいったいなになのか?
という体験をいくつか得ることができる。
そうなったら、 ゆっくりゆっくりと内側に向かって探求し、
そこに同じ対極を見いだすことができる。
あなたの内なる 男性と女性が出会う日に、あなたは光明を得ている。
その日こそ、あなただけではなく全存在にとって、大いなる祝祭の日だ。 ひとりの人が再び戻ってきた。 無数の、無数のなかから、ひとりの人が到着したのだ。 仏陀が光明を得たとき、空から花が降ってきたと言われている。 これは歴史上の事実ではない。 詩的な表現だ。
が、 途方もなく意義深い。 全存在が踊ったにちがいない、歌ったにちがいない、
無数の花を降らせたにちがいない―― というのも、それはまれな現象だからだ。 暗闇で手探りしていた魂が突然、統合されるようになった。
       断片的だった魂が結晶化するようになった。
             ひとりの人が神になったのだ。
それは祝われてしかるべきだ。 それは全存在への祝福だ。 だが、 最初のレッスンは外側で学ばれなければならない。 それを覚えておくがいい。
外面でその女性を、 彼女の豊饒さのすべてを、
彼女の甘美さと苦さのすべてを知っていなければ・・・、
外側でその男性を、 彼の美しさのすべてと醜さのすべてを知っていなければ、     ・・・あなたは内なる次元へと入って行くことができないだろう。
陰と陽、シヴァとシャクティが
             内側で出会うのを許すことができないだろう。 そして、その出会いはこの上もなく重要だ、究極的に重要だ。
   その出会いとともに初めて、あなたは神になるからだ。
           それより前ということはけっしてない。 Osho - The Book of Wisdom