最近、二度ほどそれぞれ別々のスピ系の人と話していて二回とも同じ話題で意見が分かれた

  相手 : 「神は当然いるっしょ?」

   私 : 「いや、神の存在を前提に話なんかする価値はない」

  この議論をしている最中に、自分自身に呆れ果てていた

   「・・・いやいや、こんな議論をすること自体が馬鹿げている!」

神が存在するだの、しないだの、実に馬鹿げた論争だと思う
どちらの立場にしたって水掛け論だ

人間如きが神の存在を証明出来るというならば、とっくに出来ているだろうし
「存在しない」ということを証明する確かな証拠だって出て来るわけは無いんだから・・・!

  ・・・・何故私達人間は、こんな埒の明かない議論に明け暮れて、
     しまいには〝宗教戦争〟まではじめてしまうんだろうか?

私が本当にこの言い争いで明らかにしたかったポイントは

   「神の存在を信じることに価値があるのでは無く
     神からですら信頼されるような生き様とは何か?
         ・・・そこに集中するべきでは無いのか?」

            ・・・っということだ
   それは、〝信(芯)のある人〟ということではないだろうか?

   それは特定の〝教条〟〝教理〟を信じなさいと言うことでは無く
      自分自身を、〝何か〟によってではなく無条件に信じる事だ

神サマの存在を信じること自体は別にどうでも良いのだが、
そう主張する人とは大概、
「自分自身を遠く離れたパーフェクトな存在が宇宙の中心だ」っと思い込んでいる・・・

もちろんこれだけ広大な宇宙であれば、「進んだ」宇宙人などゴマンと居るだろう・・・

でも
 「自分よりも優れた存在がいる」という謙虚さと
 「宇宙の中心となるパーフェクトな唯一者がいるに違いない」という
 「〝基準点〟〝規範〟を自分の外に想定すること」とは、根本的に意味が違う・・・

     私達が「信じる」といえば、通常〝何か〟だ・・・  対象になる〝何か〟を信じる

    そしてその〝何か〟を信じるとは、当然、それが「絶対に正しい」と思うからこそ
    その〝思い込み〟のことを〝信念〟という・・・

  ところが私ときたら、「何か特定の、〝絶対の〟正しさ」なんて、何も信じてはいない
  なぜなら、「〝有〟条件の正しさ」には必ず限界と限定があるからだ

  つまり「絶対的な正しさなんてない」ということが、「唯一の絶対的な正しさ」だとさえ思う

    (相対的、限定的な正しさならば、無限に一杯あるけど・・・)

     じゃあ、「無条件の信頼」なんて本当にあるのだろうか?

  ・・・そしておもう

 「無限に価値あるものとは、森羅万象を知覚しているわたしという主体だ」 っと

この世に如何なる歓びや悲しみがあったとしても、それを知覚し、感じる〝わたし〟が不在では
すべてが水泡に帰する

たとえ全知全能の神が、全人類にサンタクロースのように至福を分け与えに降りてきても
あなたの前だけ通り過ぎてしまうのなら、あなたにとって彼は〝神〟ではなく
「嫌味な奴」以外の何かでありえるだろうか?

他の全人類が至福と歓喜に沸き立っていても、もしあなただけがのけ者にされたとしたら?
あなたにとっては、彼は「悪魔」ではないだろうか?

         ・・・この世界で最も大切なのは「神」ではなく、「世界」でもなく、
                           「あなた」が充たされることだ

         ・・・あなたにとって、あなた以上に存在価値があるものはあるだろうか?

ではたとえば、この「〝祖母〟はどうなんだ?」と考えてみよう
このおばあちゃんも決して例外ではない
もちろん自分の命もなげうたんとする程、子供を想う愛情に溢れた話だが
「子供を想っている」のは誰か?  ・・・・自分である

  この場合の「自分(祖母)のいのち」以上に「自分の子を想う〝想い〟」こそが自分なのだ

  だからここで祖母がもっとも大事にしているのは「肉体生命」ではなく「自分の想い」なのだ
  だから時として人は「思いあまって自殺する」ことさえあるのだ

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改めて思うのは・・・
、「何か頼りにし、足場とする前提があれば、その〝足場〟そのものが〝足かせ〟となる」

  人間が思いつき得る最大の傲慢とは「全知全能の神」を自分勝手に想定した上で
  それが「存在する」だの「しない」だのと騒いでいることだ

    ・・・そんな議論が出来るほど、私たちはいつのまに出世したのだろうか?

「自分のことが(神よりも)一番大事」「一番カワイイ」・・・それだけでいいのじゃないだろうか?
それが「誰かとの比較」であるとき、それは最大のエゴイズムだろう
たとえ多くの人々の集団、たとえば〝国家〟であったとしても
その実際は個々人の集まりに過ぎない

なぜひとびとが戦争をするのかと言えば
「アッチの国家より、コッチの国家の方が〝存在価値〟がある、その正当性がある」ということ・・・
そして、
「国家を守るため」ならば「個人は犠牲になるべき」ということだ・・・

・・・この二つのポイントに完全な同意があった時、戦争は絶対に避けられない
  基本的に「二つの巣のアリンコ同士の闘い」も「人間の戦争」にも、どこにも違いは無い・・・

「家族=巣」がなくては「個体」はどうせ生き残れない・・・
だから「個体」は「巣=先祖と子孫」を守るために死ね・・・
       これが、延々と生物が繰り返してきた営みだ

この時、「生の理由」も「死の理由」にも単純な説明が付く、何の迷いもない
だから個体が自らの「生と死」について考える必要性は無いのだ

2500年前にゴーダマ・シッダルータが「生老病死とはなにか?」と問うたことが・・・
・・・個人に目覚めつつある現代の私達にとっては、この〝当然な・・・、自然な疑問〟が
                どれ程偉大な、先進的なクエスチョンであったのか!?

「家族」やら「会社」やらのために「個人」が犠牲になることが当たり前だった「昨日」まで・・・
               ・・・の人々には、これは決して理解し得ない重大事なのだ

現代の私たちならば簡単に判る・・・
自分自身を大切に出来ない人が、本当に他者を尊重出来るだろうか?

私達は大概、なにがしかの前提、足場とする信念にアイデンティティーを支えてもらっていて
「そこ」に誰かが不用意に触ると狂ったように怒り出す・・・

  自分の土台骨にちょっかいを出されて
   安寧としていられる人間はそうそうはいない・・・
           いわゆる「泣き所」
            というか「虎の尻尾」
             というか「地雷」?(笑)

    わたしたちはみな、自分でも気がつかないうちに、
    この「自分の聖域」を踏み荒らされないように、酷く警戒して「キョドって」いるのだ
    しかも、その「警戒心」を自分自身がなかなか自覚出来ない・・・

わたしたちはいつも人の顔色を見て思う

  「ああ、この人にこれ以上言ったら可哀想かな?」

  「ここから先は〝地雷〟かな?」

だれもが相手の・・・
 ・・・受け入れ可能なキャパシティーを推し量りながら、遠慮しながら、空気を読みながら、話す


私の「対人嫌悪症」も、
この辺の「距離感の取り方」が人一倍ヘタであることが原因なのかも知れない
              ・・・気が付くと精神的にへとへとになっている

           そしてこんどは、そんな〝気疲れ〟をしている自分が嫌になってくる


「ひとにとって〝本人の信念〟は何にも代えがたく重要だ」
ということを
きっと、わたしはもっと気が付くべきだったのだ・・・
    本当は人はだれも「変えられたくない」ものなのだ

       もちろん

そのことによる〝限界〟  そのタブーによる〝行き止まり〟にはかならず突き当たるだろう

でも、それは他人が
    あらかじめ「指摘して上げる」ことは、往々にして〝余計なお節介〟なのだ

大切なのは、
「転ばぬ先の杖」なのではない・・・、

「痛い思いをして自分で転んで、自分で起き上がる」こと・・・
   子供が二足歩行を覚えるのと原理は同じだ ・・・あまり余計な手出しをしてはいけない

  だからこの場合「何が正しくて、何が間違っているか?」はあまり重要ではない

  それを本人が身体で覚えることが大切なのだ

       誰のどんな信念であれ、それは何よりも重要だ・・・
        間違っていても、それでも重要だ尊重されるべき

本当はだれもが求めているのは、
自分の考え、自分のやり方の尊重だ

 でも〝尊重〟とは、
  間違いであった場合、大きな間違いを起こした場合でも、「許しましょう」ということではない

たとえば罪のない人を、自分の信念を振りかざして殺してしまったなら、
やはり殺人の罪を問うべきで、本人のやらかしたことに対して、
当然の対応をするべきだと思う   ・・・・手加減など無用だろう、それこそが〝尊重〟だと思う

  ・・・・世間はそんな当然の対応をすることで、自分の信念がもたらした結果を人は思い知る

    ・・・・自分自身の信念の延長線上に、どんな結果が待ち構えているのか?
                      誰であれ直視するのは大いなるチャンスだ

ひとが言葉(説明)だけで全てを悟るならば、こんなラクなことはない・・・
だれもが「ホンのちょっとした真実」をキチンと咀嚼出来る様になるまで、
気が遠くなる程の失敗の経験が必要なのだ

・・・だからこそ、この「なにかひとつの単純な理解」に至るまでのギャップは
  想像を絶するほどの深淵が口を開けているのだろうとおもう

   わたしたちは、日常的な言葉は通じても、肝心のエッセンスは伝わらない
    とてつもなくかけ離れた、「異質の宇宙」の住民なのだ

  ・・・だから言葉だけでは到底埋まらない


          「無」という言葉ほど、理解しがたい言葉はない

     しかし、生命の歴史の先端に辿り着いた〝個人〟にとって

           「無」という言葉ほど、あたりまえの言葉はない

    ・・・なにひとつ信念も信条も持たず、「身構え」を持たず生きること

 すべての信念、信条、定義(レッテル・カテゴライズ)とは「システムの維持」に必要なもので、
  これに「我が身を委ねる」こととは、このシステムやら理論やらに「身を捧げる」ことなのだ

しかし実際の処まだ、
  この「生命進化の究極点」まで辿り着いて
   「個人として生きる」準備が未だ整っていない人々が大半なのだ・・・

    かれらは目の前で話が出来ても、いまだ旧約聖書の時系列に生きている

              「神ははじめに言葉(定義、概念)を作った」
                    「女は子供を産め、男は働け」  である

旧約聖書の時系列の中で生きるとは、
システムに取り込まれて奴隷として、社会の歯車として、
儒教的な形式とタテマエの秩序の中に生きることに他ならない

そこで許される個人の自由とは(エゴによる)選択の自由だけであり
定義をこえた、形式を超えた無限の中に生きることは決して許されない
彼らにはまだまだ「無」は到底理解出来ず、
「信念大系」「組織」という〝よりしろ〟が必要なのだ

彼らには、「個の実現 」と「エゴイズム」との差が判らない

だから 「個の実現 」が「無」へと到達出来る唯一の道程であることも判らない

彼らが理解出来る「無」とは
「滅私奉公」「無念無想」「無我夢中」ぐらいが限界で
「神風特攻隊」みたいなのが「理想の死に方」なのだろう 

宮井陸郎 シャンタン


あなたの宇宙はあなただけ、二つと同じ宇宙は 存在していないのです。

津留晃一
信じるものを見る人にとって
目に見えないものを信じるという事はなかなか難しいことのようです。

誰も自分が確信できないものを信じようとはしません。
しかしこの思考パターンを少し変更せざるを得ない現実が
最近確認され始めました。
その最たるものが量子物理学の世界です。

量子のミクロ世界では、
見ようとする対象物は必ず見る側の影響を受けるというものです。
--我々人間の目は光で物を識別認識しますが、
ミクロ対象物はこの光により大きくゆがんでしまいます。

即ち
見ていないときと見ているときでは
全く別の形を呈していることになります。

ということは、
我々が見ているものは、
我々が見ていないときの物とは全く別の物であるという事です。

これまで我々は一体何を信じてきたのでしょう?

目にした物しか信じようとしなかったのに、
見ているものは真実を表してはいないという事になります。

アインシュタインが言っているように
我々人間はエネルギーそのものです。
そしてそのエネルギーは、
人の個性通り別個のエネルギーを持っています。

私が社員Aを見るとき、
社員Aは私のエネルギーによって影響を受け、変化しています。
そして社員Aの友達が社員Aを見るとき、
今度はその友達のエネルギーが社員Aに影響を与え、
そこには社員Aの友達から見た社員Aが誕生します。

即ち社員Aは見る人の数だけ存在し、
絶対的社員Aなる者は存在しないということです。

このことを認識していない
社員Aの同僚二人が社員Aについて議論しているところを
想像してみて下さい。
その議論がかみ合わなくて当然です。

そして常日頃我々はこういう不毛の葛藤を体験し続けています。
あなたに知っていただきたい事は、
あなたが見ている世界はあなた独自の
ユニークな宇宙空間であり、存在していないのです。

あなたが認識している世界はあなただけの世界であり、
そしてあなたの前にいる社員Aは、
あなたの世界とは全く違う
別宇宙の存在であるということをしっかり骨の髄まで
しみ込ませて欲しいのです。

この三次元物質世界に存在する全ての物は、
互いにまわりの物から影響を受け合います。
あなたの前にいる全ての人は、あなたの影響を受けた
あなた独自の人物です。

あなたの奥さんはあなたによって
変形認識された奥さんであり、
奥さんそのものとはかけ離れた存在であることに気付いて下さい。

気に入らない奥さんがいるとしたら、
それはあなたのエネルギーが創り出した
あなたの宇宙にのみ存在する奥さん像であり、実体ではありません。

たとえそれがどんなにリアルに見えたとしても・・・。